断片XII 透んだ水の湧く谷戸
文章として書くには当然、蓄積し、無意識のうちに考えを整理するプロセスが必要で、 いわばそれは地下の水脈のようなものなのであり、水脈が涸れてしまったらおしまい ということになるわけだが、それゆえに、しばらく文章を書くことから遠ざかって しまうと、放っておくと涸れてしまうのでは、もう今からでは間に合わないのでは、 という危惧の念に付き纏われることになる。
今回は、掘ったら一応、水が出たということのようで、こうなると書けた文章の評価は 二の次で、個人的にはまずもって、水脈が涸れていなかったという事実自体に 先ず安堵してしまう。
「透谷」というのは京橋弥左衛門町住まいの透谷が数寄屋(すきや)からとった号らしく、 「透谷北村門太郎の号が数寄屋橋のスキヤに漢字を当てたものであることは今ではあまり知られていない。」 (橋詰静子「富士山トポグラフィー」「第1章 北村透谷のトポス 1 銀座煉瓦街と国府津◆水の活力」) との記述もあるけれど、それでも言及されるのにしばしばお目にかかるというのに、 漢字の当て方についての議論は管見では遂にお目にかかったことがない。
そればかりか、多摩丘陵の風景における谷戸の重要性にも関わらず、主として彼が逍遥していたのが 民権運動期であったためか、あるいは都心の寓居の周辺を記した文章は残っていても、 多摩丘陵の逍遥については、「三日幻境」以外にはほとんど文章が残っていないためか、 多摩丘陵の風景についての記述自体、透谷関連の文献でもほとんどお目にかかることはない。 小澤勝美の「透谷と多摩」が、ずばり透谷を中心とした多摩民権史の跡を辿るガイドであるが故に、 貴重な例外となっているのが目立つくらいであろうか。
その中で、自分自身の苗字の方への拘りからか、菅谷規矩雄が「詩的リズム 音数律に関するノート」の 透谷にあてた章で、あるいはそれ以外の章においても、谷戸の風景に言及しているのが際立った 印象を残す。例えば以下のように。
もっとも、北村門太郎の用いた筆名は透谷のみではなく、蝉羽子を始めとして幾つもあるのだが、 其の中でどうして透谷の名が本名にも優って流通するようになってしまったものか。 いずれにしても、「透谷」という漢字の当て方に、小田原の海浜で生まれ育ち、だがその後は 多摩丘陵の谷戸を逍遥し、都心においても樹林鬱蒼たる高台に住む事を好んだように見える 彼の、風景に対する或る種のフィーリングのようなものを見ずにはいられない。(そしてこの点に ついて最も敏感なのは、私見では、吉増剛造の『透谷ノート』である。)
私もまた、ある時には透谷縁の場所を「巡礼」し、ある時には直接透谷の足跡が残っている わけではないけれど、透谷が歩いた可能性がある風景の中を、1世紀以上の遅れをもって 辿ることをしつつ、時折文章を綴るようなことをしているが、上に書いた文章を書くプロセスの イメージは、私が散歩して歩いている谷戸の風景が映り込んでいるのだろうと思う。 そして、谷戸を巡っていて最も印象的なのは、矢張り何といっても、谷戸の奥まったところに ある水源から流れ出る水の流れを確認することである。
谷戸を潤す水は水温が低くて 農耕には必ずしも適しておらず、更には量が豊富であれば谷の底の部分は一面泥沼と化してしまい、 両側から尾根の迫る地形の制約による日照量の制限とともに、そこでの耕作に大きな困難を もたらしたという。宅地造成の波が及ばず、また耕作放棄されてもおらず、今尚耕作地として 活用されている谷戸でも、寧ろ斜面を活用した畑が中心で、谷戸の風景のトレードマークである 棚田がほとんどないものも多いが、それには、都市近郊の農業の構造の変化とともに、 そうした背景があるようなのだ。
透谷もまたそうであったように、私にとっても谷戸の風景は、結局のところ自分がそこに 生活の根拠を持っている場所ではなく、自分は所詮、そこを通り過ぎるだけの存在である ということを痛切に感じるのは、逆にそこを単に通り過ぎるだけではなく、そうした背景を 知るようになってからなのだが、その一方で、自分の内部の風景の織りなす地形、多分 そここそが自分の根拠である仮想的な場の地形に関しては、それが谷戸のネットワークの ような構造を持っているらしいことは、ますます確からしく思われて来るのだ。
勿論里山の保全が叫ばれ、ボランティア活動の呼び掛けも頻繁になされている現在であれば、 そうした活動に参加することで、現実に谷戸の景観維持に実質的に寄与することだって 可能ではあるのだが、今しばらくの自分の為すべきことはそこにはなくて、寧ろ仮想的な 精神上の谷戸の方にあるのだと考えている。誰もが心の中の構造として、そうした地形を 抱き、のみならず更にそのことを意識して生きているわけではないらしいことがわかるにつれ、 寧ろ私がなすべきことは、精神的なものが織り成す仮想的な領域において自分が見たものを 書き留めることなのだと考えるようになってきた。そしてそれは、1世紀以上も前の若き透谷が 現実の谷戸の風景の中を逍遥した後、自覚的に選び取った在り方と、どこかで繋がっていると 感じている。実際には透谷の軌道との近接には、事後的に気付いたのであるけれど、 寧ろそれだけに一層、近さを感じずにはいられないのだ。
果して「透谷」という号は、そうした湧き水が豊かな谷戸の風景を、恐らくは同時代にあって 彼のみが天才的な直観力をもって見出した、心の構造のそれと重ね合わせてのものであったか? 実証的な裏づけはないけれど、私は自分自身が谷戸を巡ることによって、それをほぼ確実なことと 考えていることに気付かざるを得ないのである。
そうした精神的な領域の風景を、透谷は、彼の生きた時代の中でほとんど孤立した状況で 発見したのだった。のみならずそれが物質的な領域に随伴しつつ、それでもなお、物質的な風景と は独立の自律した力学を備えて、独自の来歴と未来を持つものであること、更にはそれが 超越的なものへと通じていること、そしてその風景の中で生きることが、意識の構造がもたらす、 ということは、その構造が維持される時空においては普遍的と言って良い、従ってある意味では 避けることのできない、或る種の宿命であることを、彼は、その天才的な直観をもって同時に 理解してしまったに違いない。彼はその直観をもって、既成の制度としての宗教を超えてしまい、 より普遍的な場所で「祈り」を、祈りの応答としてのインスピレーションを問題にした。
良く知られているように、その後の日本文学は、透谷の持つ普遍性と超越への志向を引き継がなかった。 そして1世紀の隔たりにも関わらず、時代の意匠を取り払えば、透谷の認識からそれほど遠くに来たとは 到底思えないのである。彼の見出した問題、とりわけても「信仰なき者の祈り」の問題は そのまま残っていると私には感じられる。そして、今日のテクノロジーやメディアの環境の文脈の中で、 全く別の方法論によってその問いの答えを探求しているのが、三輪さんの活動なのだ。
精神的なものは、必ず物質的な領域に随伴するのであって、理念や観念の領域は、自律的なものではあっても、 物資的な基盤なしに存続するわけではない。意識が生物学的な基盤の上に成り立っていて、その基盤が トラブルに見舞われたり、生命の維持が不可能になれば、意識は存続しえないことと、それは並行した 関係にある。だが透谷に対して、彼が霊肉を分裂させ、肉の領域を蔑ろにして霊の領域に優位を置きすぎた 廉で批判することは容易く、或る意味では論理的に正確であったとしても、正当とは言えないだろう。 寧ろ彼の預言は、カーツワイルのような特異点論者が予測する、特異点の向こう側にまで及んでいると 考えるべきなのだ。あるいはまた、セス・ロイドのような情報論的宇宙論に通じるものと捉えるべきなのだ。
現在までのテクノロジーの発達、今後予測される発達が、寧ろ透谷の「霊」の優位の直観(今やそれは寧ろ、 情報論的な捉え方の優位と読み替えるべきなのではなかろうか)を、正しいものにしてしまうかも知れないのである。 透谷が予見したものは、透谷の同時代には適切な語彙によって語ることができず、寧ろ漸く現在において、 だが恐らくは将来においてはますます、それを語るに適切な語彙を、遅ればせながら手にするのではなかろうか。
(2015/5/12 22:38公開, 2024.9.12 noteにて公開)