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日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(21)

21.

一方、白井健三郎は、フランスのルネサンス以来の伝統であるユマニスムの立場からの宗教批判が主題であるとしている。そうした視点に立つ限り 「狭き門」よりも「田園交響楽」の方に重点が置かれるのは或る種の必然で、実際、白井健三郎は明らかに「田園交響楽」を「狭き門」の発展と 捉えている。こうした文脈では、「狭き門」は「キリスト教的観念による<永遠の生>に対する対決」であり、「人間としての宗教にたいする態度を 決定しようとするものだ」という位置づけになる。白井によれば「神の永遠の生を名目として、その観念に生きるために、現実の生を抹殺することが 許されるのであるか、そのとき人間の生もまたむなしくはないか、ジードの深刻な問いは、当時の思想的・社会的背景からみても、根源的な人間の生に ついてのユマニスト的な問いなのである。アリサは<永遠の生>の観念のために自己の現実生活を犠牲にし、そして彼女の生そのものがしだいに 狭まれ、その真の生命は衰弱し、喪失される。それは<狭き門>であるどころか、人間性の否定を意味しはしないか、節度のなかのジードの 激情的な告発が、ここにあるのだ。」としている

白井の指摘の妥当性は従って寧ろ、いわゆる聖書の自由解釈の帰結するところとしての「田園交響楽」の結末によって測られるべきだろうが、 そして一見したところ、「狭き門」におけるアリサの姿を鏡とした批判としての説得力を備えていそうでありながら、どこかで決定的にずれている感覚に 捉われるのは、白井の問題の定式の仕方が抽象的で観念的であることに由来しているように思われる。<永遠の生>という観念に殉ずる姿を 描いて宗教批判とするというのは、見方によっては本末転倒としか思えないような、それ自体観念的な把握であって、そうした問いの立て方をする限り、それは解決の途を予め閉ざしたようなもので、どこにも行きつかないだろう。それは批判のための批判に過ぎない。同様に、白井の言う 「節度」というのも、全く抽象的なものでなければ、或る種の詭弁にさえ感じられる。それは白井の言うジッドの軌道を支配する力学、 節度を保ち、大胆でありながら慎重で、常に平衡をたもとうとするというように白井が述べる動きについても同じことである。平衡を保つことが 宙返りや変貌を帰結し、スキャンダルを惹き起こすのは必然ではない。勿論、もしかしたらそれはジッド自身が持っていた観念性に由来するのかも 知れなくて、その限りで白井の要約は的を獲ているのかも知れないが、だとしたらジッドのそうした態度も含めて、ジッドの問題の立て方と それに対する反応の様式が間違っている可能性にどうして気付かずにいるのか。

アリサの姿勢を狭義の意味合いでキリスト教的であると見做すのは、恐らくキリスト教が疎遠な日本の風土の中でしか成立しえず、 キリスト教の立場からは、「田園交響楽」に含まれる全ての立場と同様、アリサの姿勢についても批判があって当然であろう。 それをぎりぎりのところで宗教的と呼ぶとするなら、ニーチェをプロテスタントの極限と見做すような立場においてのみ可能だろう (ちなみにそれはジッド自身の立場であるから、その意味ではジッドの中では一貫性は保たれているのだ)。だが、同じくキリスト教の 外部の立場に立つのであれば、そもそもアリサが何故そのような観念に殉ずるような途を歩まざるを得なかったかという原因についての 追求の視点を全く欠いていることに奇異の念を抱くことがないのは何故なのか?問題は特定の観念ではなく、そうした観念を絶対視し、 それに殉じるような実存様態にあるのであるとするならば、問題はユマニスムの地平で解消されるものではないだろう。結局のところ、 白井の議論は、川口の「人間性の回復」の主張と隔たるところがなく、そんなところには問題はないのだ。作者たるジッドも含めて、 自分が直面し、作品が提示した問題を正しく捉えられなかったのかも知れない。恐らくそれは、ドストエフスキーが「白痴」で 立てて追求し、そこでは「狭き門」同様、一見したところ破壊的な帰結しか獲られず、だが、「カラマーゾフの兄弟」で再度追求された 問題と根本は同一の問題だろう。


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