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一力茶屋さまざま(2002年12月)

2002年12月の文楽は忠臣蔵。今年は忠臣蔵の年らしく、歌舞伎等でもさかんに上演されたが 私が観るのは、3月の「昨年度の」地方公演に続いて2度目。一力茶屋は4度目である。
まだまだ見始めて間もないというのに4度目というのは、巡り合わせとはいえ、この場面の 人気を物語る。私にとっては初めて観た文楽が一力茶屋なのだが、この最初の回はむしろ その後の道行や山科閑居の方が印象に残ったため、2回目、3回目の文雀さんのおかるの 印象が強い。床は津駒大夫さん・富助さんと嶋大夫さん・清介さんと違っていて、 異なるおかるを観ることができているのだが、今回は津駒大夫さん・富助さんの床に 紋寿さんのおかる。どういうおかるになるのか楽しみに観に行った。
結論からいくと、津駒大夫さん・紋寿さんのおかるは、表面の華やかさよりもむしろ、 その悲しみが印象的な、心のうちが痛ましいほどに伝わってくるおかるだったと思う。
まず、出が異なる。酔い醒ましをしているという設定での登場だが、気持ち良く夜風に あたっているのではなく、むしろ憂いに沈んでいるような表情で、おかるが、何故このように 華やかな格好でここに居るのかを思い出させる。うつむき加減のその視線の、届かない先には 勘平がいるのだ。そして、由良之助に請け出されることになったときのその表情にも、 勘平との再会の期待が感じ取れる。ここの場面、当時の流行り歌が挿入されるのだが、 その歌詞が、そうしたおかるの気持ちの注釈になっていて、作品の構成の巧みさにも 感心した。もっと正確に言えば、今回はじめて、舞台を見つめている時に、その歌の歌詞が おかるの表情にぴったりと重なって聞こえた。感動的な経験だった。
そうしたおかるの気持ちが、前段で十分に感じ取ることができればこそ、平右衛門に勘平が 切腹したということを聞かされたときのおかるの動揺は、見ていて痛々しいばかりのものと なる。床に関しては今回の頂点は、明らかにおかるが動揺に堪えかね、気を喪い、平右衛門に 介抱されて正気に戻って、もう一度問いかけ、動揺をおさえることができずに「どうしよう」 と叫ぶところにあった。この部分の迫真性は、様式やジャンルを突き抜けた圧倒的なもので、 言葉で書けば三業一体、人形遣いが消えて人形だけが見える、などなどの言い古された 書き方になってしまうのだが、今思い出しても、胸が潰れるような気持ちになるくらい だった。
最初に津駒大夫さんのおかるを聴いた時に感じた、平右衛門とのやりとりの間合いのよさ、 嶋太夫さん、文雀さんのおかるでの、状況の変化の表出の表現主義的といえるような荒々しさと 「おかるは始終咳き上げ、、、」以降の圧倒的な美しさ、様式と内容の輝かんばかりの一致、 そして今回の、紋寿さん・津駒大夫さんによる、自然で心理的に一貫した説得力のある把握と、 それに裏付けされた、様式を突き抜けるような迫真性と、三者三様の素晴らしい舞台を拝見する ことができている。もともとの話が良くできているというのもあるだろうが、例えば、 平右衛門とのやりとりは上演されるに従い、追加されていったもののようで、長い上演の伝統に よって練り上げられてきた完成度の高さと、やはり何よりも、そうした伝統の上で、今日の しかも私のような門外漢に我を忘れさせるような舞台を作り上げる人形遣い、大夫、三味線の 方々の芸の力量に負う部分が多いのだと思う。
なお、紋寿さんの人形に関しては、拝見した後で、おかるの遣い方について述べておられる 文章があるという情報をいただいたが、「文楽 女方ひとすじ」に書かれているそのお考えが 上述の私が感じたことと一致しているとのことで、その意図が観客に伝わる、しかも私の ような見始めて間もない人間にも伝わるということに、あらためて驚いた。
今回の上演は、おかるだけでなく、全体として良かったと思う。千歳大夫さんのゆったりと した貫禄のある由良之助、文字久大夫さんの平右衛門、貴大夫さんの九大夫、それぞれ聞き ごたえ充分で納得がいった。

(2002.12 公開, 2024.10.31 noteにて公開)

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