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ヤニス・クセナキス

恐らく多聞にもれずというべきなのだろう、私の場合もクセナキスへのアプローチはその作曲の方法論への興味が先行した。つまり実際の音響的な実現を享受する以前に、確率的な音群の操作や音階についての考え方などを知って興味を持ったのだと思う。クセナキスの「理論」というのはいわば「後追いの理屈」みたいな部分があって、批判が多いのも仕方ないが、それによってその着想の部分の独創性まで否定されてしまったら、洗い桶の水もろとも赤子まで流すことになってしまうだろう。要するに彼の作曲の技法は、数学的な道具立てを用いるけれど、その使い方はいたって直感的で、論理性は感じられないし、自分の着想をいわば厳密に基礎付けられたものにしようとしているようには思えない。様々な確率分布の本来の意義を無視したかのような気儘な使い方を見ていると、音列主義に対して自己を差別化する必要性はあったにせよ、それ以上の、包括的な「音の理論」を作ろうとしたとは到底思えない。仮にそれが彼にできたとしても、それは彼の仕事ではなかっただろう。彼は作曲家であって、音をどのように組織化するかという着想の根本から先は、響きを吟味して音を探す、いつもながらの作曲家となんら変るところはない。

そういうわけで、私が最初に聴いたクセナキスは、多分、エオンタ、メタスタシス、ピトプラクタが収められた有名なアルバムと、統計音楽のシリーズの何曲かだったと思う。

しかし世代のせいもあり、それらの音楽は実際には私にとっては同時代の音楽ではない。そういう意味では、その後、かつてのNHKFMの「現代の音楽」で取り上げられた、エヴリアリ、コンボイ、コロノスにて(確か近藤譲さんが解説をやって、コロノスにての歌詞である、ソフォクレスの「コロノスのオイディプス」の邦訳の一部を読み上げたのを記憶している。)といった作品の方が、同時代というに相応しかったに違いない。クセナキスが没したのは今世紀になってからだが、いわゆる前衛の時代というのは今や遥か昔の、歴史の彼方に属している。その結果、クセナキスの音楽はおしまいにはすっかりアナクロニックなものになってしまったかのようだが、そのかわりクセナキスにも存在する様式の変遷を超えて、その音楽の一貫性は、決して損なわれることはなかったように思える。

上に書いたことを直ちに撤回するような言い方になるが、実際には「同時代」の音楽というときの視座というのは結局相対的なもので、延長的に考えられたクロノロジーの上での同時代性というのは抽象に過ぎない。少なくとも私にとっては、私的な体験のレベルを超えた地点でも、クセナキスの音楽は未だに「同時代的」と呼べる問題性を備えていると、つまり「過去のある時代の音楽」とか「かつての前衛」として相対化することができないアクチュアリティを残していると思われるのだ。そしてそれは時代を遡って、メタスタシスに始まる初期の「傑作の森」についても言えると思う。確かにそれは今や「古典」なのかも知れないが、一方ではその音楽を聴く行為は未だに新鮮だし、その音楽の眼差しは、時代の経過とともに手前に落ちて過去に閉じた円環を形作ることなく、未だ彼方を指しているように思われるのである。

クセナキスの音楽は、伝統的な意味での音楽とは言い難い側面と、にも関わらず音楽と呼ぶほかない側面が混在しているように思える。思えば不思議なことだが、音の操作の仕方として、クセナキスが思いついたようなことを実践した例というのはあまり聴いたことがない。また、楽器のために書く、という意識は、少なくとも初期の段階では希薄だ。従って、和声学も対位法とも無縁、管弦楽法とも無縁で、いわゆる西欧の伝統的な音楽の技法との断絶がはっきりとあって、それゆえ、クセナキスの音楽は、今後もそういう意味では彼の地では異端であり続けるだろうと思われる。風鈴の音、虫の音が音楽と変らないこの地であれば、クセナキスの構想した音群の散乱こそ、「印象派」の極限というふうに捉えることだってできそうなものだが。人によっては不快に思うかも知れないその音楽が、整然とした人工的な構造をもち、歌うこともできれば容易に記憶することもできる西欧の古典的な音楽に比して、遥かに自分にとっては違和感がないように感じられることすら一再ならずあるのだ。

その一方で、ケージのような作曲行為自体の問い直しや、作品の概念自体の問い直しといった、いわゆるコンセプチュアルな側面はクセナキスには希薄だ。楽器のためには書かないとはいっても、彼は生身の人間が自分で演奏する音楽を書き続けたし、その音が人間を超えた秩序の方に強く傾斜した構成を備えているにしても、それは人間のものであり続ける。クセナキスにあっては音楽は人間の営みなのだ。作曲を止めて、風鈴の音に耳を澄ませるという実践のみが残るということには、クセナキスの場合には絶対にならない。まるで何かに抗うかのように次々と作品は生み出されたし、その作品の持つ、一見客観の側の暴力性に見えるものは、寧ろそうした主体の側の抵抗の痕跡であり、感受のベクトル性の深さと見なすべきなのだと思う。少なくとも私はクセナキスのそうした姿勢がその音楽に紛れもない仕方で刻印されているのを感じ取れるように思えるし、それにいくたりかの共感を覚えずにはいられない。クセナキスの音楽は些か古めかしくはあるけれど、聴く人に勇気を与える類のものなのだ。それは彼自身そう望んだように、耳の娯楽にはならない。クセナキスの音楽を聴くことは存在の様態の相対化をいくばくか含んでいる。

それゆえ何より重要に思えるのは、クセナキスの音楽が、人間の限界というのを認識し、人間の視点というのを相対化し、もしかしたら人間には届かないかも知れない別の種類の智慧のようなものを目指しているように思える点だ。どこかのインタヴューで、音楽は感覚的な楽しみのためにあるのではない、と彼が言っていたように記憶しているが、要するに彼の音楽は極めて人間的な出自を持ちながら、人間の限界を超えようとしているかのようだ。例えていうならば、レムの「ゴーレムXIV」にこそ相応しい音楽、未生の存在のための音楽たろうとしているように感じられる。数学を扱うときの不正確さ同様、彼が哲学者のことばを引くときの不正確さも批判の対象になりうるかもしれないし、人間であることの限界を見極めようなどといった、とりようによっては誇大妄想的なそうした姿勢を、寧ろ古めかしく色褪せたロマンティックなものとして否定する向きもあるだろうが、とにかく作曲という営みはそういう彼の姿勢に相応しいものであったと思う。彼が死んでしまっても作品は残る。ここでは死すべきものという限界を超えて、彼の営みを追体験することができる。今まさに私がしているように。その価値を認めない者もいるだろうが、それに価値を見出して、それを何らかの仕方で継承しようとする者もまた、出てくるだろう。様々な欠点を補ってあまりあるだけの魅力をクセナキスの音楽は備えているように私には思える。

(2005.4.16,2006.4.22修正,2007.7.3, 7加筆修正, 2024.6.28 noteにて公開)

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