見出し画像

バルビローリのブルックナー:第9交響曲・ハレ管弦楽団(1966年7月29日・ロイヤルアルバートホール)

ロンドンのロイヤルアルバートホールでの演奏の録音。マーラーの第7交響曲とのカップリングで BBCのレジェンドシリーズでリリースされたものだ。

上述のようにいわゆる今日標準的と見なされるであろうブルックナー演奏の様式からは まったくかけ離れた演奏だ。多分バルビローリは他の作曲家の作品と基本的には同じ スタンスで臨んでいるのだと思うが、テンポの設定、フレージング、強弱法、どれを とっても極めて個性的な演奏になっている。

バルビローリの演奏が意識の音楽であることが些か極端なかたちで露わになった演奏だと 思われる。勿論、ブルックナーの音楽に何を求めるかによっては、このことは決定的な 躓きの石になるだろう。おまけに、ブルックナーの人間化といっても、例えば アーノンクールがそうであるような、生活世界の次元での親近感のようなものは、 当然のことながら望むべくもない。

けれども何回か聴いている裡に、この演奏に対して抱いていた違和感があまり根拠の ないものに思えてくる。何故、ブルックナーに限って、そこに主観が居てはいけない のか?何故、その風景は主観の心象の投影であってはいけないのか。何故、 ブルックナーに限って、音が向こうからやってくるのでなくてはならないのか?

例えば第3楽章に、常とは異なって主観の反応を見出すとき、実はそれが、 シベリウスの特に後期の交響曲、ヴォーン=ウィリアムズの第5交響曲などで起きていた事態と構造的には 何ら変わらないことがわかる。そこには出来事を受容する主観が存在するのだ。 そしてそれは、アダージョのコーダに至っても決して揮発してしまうことはない。 マーラーの第9交響曲のコーダにおいてそうであったように、主観は揮発してしまい 無人の風景が残るのではなく、最後に主観のまなざしが残るのだ。

私はそれを寧ろ、肯定したいような気持ちにとらわれている。勿論、他の演奏の価値を 否定してしまおうというのではないが、最後に残るものがあることを、肯定的に 捉えたいように思うのだ。それをバルビローリの音楽の人間中心主義的な限界である というふうに考えずに、ある種の勁さのようなものとして捉えたいように思うのだ。 とりわけブルックナーを聴いてそれを感じたことは、決して偶然ではないように 思える。それは通常ブルックナー演奏には見出せないし、そもそも見出そうと期待も しないような存在の様態だからだ。(この「様態」に関係がありそうな参照点を 幾つか掲げれば、例えば、イヴァン・カラマーゾフの引用したプーシキンの詩に 出てくる「春先に萌え出ずる粘っこい若葉」、アドルノが否定弁証法で言及する 「瞳や振られている犬の尾」、そして何より、マーラーの第7交響曲のフィナーレの バルビローリの演奏が思い浮かぶ。)

(2007 公開, 2024.7.9 noteにて公開)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?