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日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(6)

6.

ただし、結論から見ればあまりに直裁に過ぎる題名も、作品自体の執筆の紆余曲折と難渋に寄り添うようにして、複雑な変遷を遂げたことは 留意しておいてもいいだろう。勿論、結論が「狭き門」であるという事実は蔑ろにすべきではないが、その結論が容易に獲得されたものではない という事実が物語るものもまたあるのだから。物語着想の発端は、1884年5月に起きたジッドの母ジュリエットの家庭教師であったスコットランド生まれの 女性、アンナ・シャクルトンの死であったらしい。彼女はアリサがそうであったように、療養院で知己の誰にも看取られることなく孤独の裡に没した ようだが、彼自身も文芸・絵画・音楽への嗜好を形成する上で影響を受けたこの女性の死について書くことが企てられた物語のタイトルは 「良き死の試み」(1891)であり、1894年にそれが「マドモワゼル・クレールの死」に変わり、「狭き道」を経て、最後にようやく「狭き門」となるのである。 (ちなみにアンナ・シャクルトンは、最終的に「狭き門」となった物語においてもミス・アシュバートンとして登場している。いわば登場人物の中での 重心が移動していったといった見方も全く不可能ではないし、不当でもないし、ことによったら、そうすることで見えてくるものがあるということすら 考えられる。)

ジッドは「狭き門」を「背徳者」と相補的な作品と考えていたが、執筆の順序としては「背徳者」が先行する。上記の来歴が物語るのは、 「アンドレ・ワルテルの手記」で一度既に取り上げている主題を再び取り上げることは、実際には上記のような構想を具体化する過程で 浮上してきたということだ。勿論、この主題を獲て、ようやく書き始めることができたという事実は重視されねばならない。執筆開始は1905年6月、 冒頭のアリサの描写でベアトリーチェが参照されるが、実際、執筆の初期にジッドはダンテの「新生」を読んでいる。だが執筆は遅々として捗らず、 翌年の3月末には妻マドレーヌ宛ての手紙を読み返したりしている。執筆が捗るようになったのは、1907年の初めに書かれた「放蕩息子の帰還」 を書き上げ、発表して後のこと。ようやく4度目の新規書き直しに挑むことになる。一応の完成は翌年の1908年10月のこと。着想からの年月という 点では、「田園交響楽」もまた同様の長い時間の経過を経て書かれているが、執筆にかけた時間の長さは1905年を起点としても、3年半近くに渉る。 後述するように、その間、ヒロインの女性の名前の変遷もあり、この作品が決して霊感の迸るがままに一気に書かれたものではないことを告げている。 (その文章の彫琢は、そうした事実を知らなくても、この作品が慎重に表現を吟味されて書かれていることを窺わせるに十分すぎるほどであるが、 一方で、その凝縮度の高さと雰囲気の一貫性ゆえ、作中の時間も差し渡し10年にも及ぶ経過を持つにも関わらず、リヴィエールの言うように 一息で読ませる作品であることを考えれば、この創作史における難渋ぶりは驚異的ですらある。)

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