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バルビローリのブルックナー:第8交響曲・ハレ管弦楽団(1970年5月20日・ロイヤルフェスティバルホール)

これはバルビローリの生涯の最後の年の演奏で、これに先立つこと約1ヶ月の4月30日に マンチェスターで同じ曲を演奏した時に、バルビローリは心臓の発作に見舞われたらしい。 その演奏の驚くべき覇気は、これが最後になるかも知れないという意識と無関係ではないのだろう。 それはあの7月24日の演奏会のエルガーと同じような、切羽詰った何かを感じさせる演奏だ。

演奏の様式は、現代ではもはや前時代的とされるものだが、一聴して驚かされるのは その解釈の緻密さだ。激しいテンポの変化も、旋律に対する強烈な 表情付けも、その場の即興ではなく、綿密で入念な準備に基づいていることがすぐに わかる。(ちなみに、ブルックナーの中でもこの曲は特に版の問題が取り沙汰される ことが多いようだが、ここではハース版が使われているようだ。) 勿論、アンサンブルの精度はさほど高くないかも知れないが、少なくとも、こと指揮者の 意図の実現という点を考えれば、この演奏会での達成のレベルは驚異的ではないだろうか。 些かエキセントリックであるとはいえ、細部に至るまで入念に表情づけされ、最後まで 集中力の途切れることのない、素晴らしい演奏だと思う。
それにしても、この演奏におけるバルビローリの解釈のユニークさは、その広大な レパートリー中でも群を抜いて際立っているように思える。私はブルックナー・ファンと いうわけではないので、それほど多くのこの曲の演奏を聴いているわけではないが、 この解釈の特異さは、単に時代的な演奏様式の変動では説明しきれないと思う。 つまり単にロマンティックなだけではないのだ。 その特質を正確に言い当てるのは困難だが、あからさまな主観性の残滓や、人間的な 情緒の存在についてあえて繰り返して言及することは控え、少し異なった観点を 提示したい。

それは、ブルックナーの音楽の持つローカリティに関してである。 ブルックナーの音楽は日本では(或る意味では大変に不思議なことに)非常に人気が あるが、例えばアメリカでは必ずしもそうではないし、別に大西洋を渡らずとも、 非ドイツ語圏では決してポピュラーとは言いがたい。 これは、同じくバルビローリのレパートリーの中心であるシベリウスの人気の局所性と 似ている。(ただし分布は寧ろ相補的であるといっても良いくらい異なる。) バルビローリは単にレパートリーが広いだけでなく、周縁的なものに対する開かれた 態度を持っていることにその特質があるように思われるが、逆に典型的に中央ヨーロッパ の音楽であるブルックナーの演奏においては、ブルックナーの音楽が常には持っていると 思われるローカリティのようなものが欠落しているように感じられるのだ。

そのローカリティは例えばヨッフムの演奏がごく素直に体現しているものだし、 最近では、あれほど解釈の異なるアーノンクールの演奏にも色濃く感じる ことができるものだが、ここで対比した場合に最も興味深いのは、ジュリーニの場合 だろう。 ジュリーニの演奏は、いわばアルプスの南側からブルックナーを捉えているのだが、 そのカンタービレとある種の普遍性への志向にも関わらず、(好みは措けば) ブルックナーの音楽の典型的な演奏たり得ているのに対し、バルビローリの演奏は 抽象的に、いわば「括弧入れをして」ブルックナーを捉えているように感じられる。 バルビローリにおいては常の通り、その音楽が主観的な意識のドラマと解釈されている のだが、その主観のあり方は、奇妙に日常性を欠いていて、まるで還元を受けた 主観のようなのだ。 もっとも、こうした日常性の欠如は、実際にはブルックナーだけに起きているのではなく、 実は、バルビローリの演奏では多かれ少なかれ起きていることで、ただ、ブルックナーに おけるほどは強く感じられないのかも知れないが。

勿論、「まるで還元を受けた抽象的な主観」だ、というのは、その音楽が冷たく、 客観的なものであることを意味しない。寧ろ逆に、その抽象性は主観の様態の表出に 表現主義的な鋭さを付与しているようにすらうかがえる。更にはバルビローリの 演奏の特徴の一つであるストーリー・テリングの巧みさもまた、一旦還元してから 構成するという知的な操作の結果であるように思われるのである。

バルビローリの音楽は通常思われているのとは異なって、実際には大変に緻密に練られた 冷静な解釈に裏打ちされた音楽であることを、このブルックナー演奏は他の演奏にもまして 強く印象付けるが、それと同時に、バルビローリの音楽が典型的に意識の音楽たりえているのは、 その周縁性とひきかえの抽象性によるのではないかということを考えさせもする。 そうした意味で、このブルックナー演奏はバルビローリの音楽の特質を考える上で 鍵となるものだと思われる。

繰り返しになるが、しかし、それは音楽がつくりものめいたよそよそしいものになっている ということでは全くない。寧ろ、異様なほど生々しいのだ。 第3楽章のアダージョの経過の、同じバルビローリのエルガーの交響曲演奏における 緩徐楽章の経過と何と似ていることか。鍾乳洞にある地底湖を進むような内面性の 巡礼の道行き(人によってはトゥオネラのような冥府行を連想するかもしれない。)を 思わせる音楽は、バルビローリの演奏では冷たく冷え切ってしまうことはない。 外在する秩序を模倣するよりは、皮膚が感受するその様相を、主体の変容を辿るのだ。 ここでは例のハース版の挿入句が、まるでフラッシュバックの時に生じる眩暈のような 生々しい感覚をもって奏せられるし、音楽が頂点に達した後、静まっていくところも その呼吸はほとんど身体的といっていい。弦楽器の奏する歌の美しさにも関わらず、 音楽は美しいというよりは、主体と世界の界面で生じる出来事の生々しさに満ちている。 これはいわば「経験主義的」なブルックナー、常にあっては既に回収されてしまっている 原始的な出来事を語ろうとする試みであるように思える。そしてそれを可能にしているが 上述した「括弧入れ」なのではないだろうか。

(1997 公開, 2027.7.9 noteにて公開)

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