証言:第9交響曲について:シェーンベルクのプラハでの講演(1912年3月25日)より
第9交響曲について:シェーンベルクのプラハでの講演(1912年3月25日)より(邦訳:酒田健一編,『マーラー頌』, 白水社, 1980 所収, p.124。ただしこの邦訳は抄訳であり、全訳はアーノルド・シェーンベルク「グスタフ・マーラー」,『シェーンベルク音楽論選 様式と思想』, 上田昭訳, ちくま学芸文庫, 2019, p.115以降に「グスタフ・マーラー」というタイトルで所収。)
これもまた大変有名な言葉。プラハ講演にはこれ以外にも、第6交響曲アンダンテの主題に関しての分析や第8交響曲、第10交響曲についての言及があり、 興味が尽きない。ただし第10交響曲については、この講演の時点では草稿の存在が知られているだけで、それ以上は推測するより他無かった点に留意する 必要がある。それにしても、この受け止め方自体のインパクトは大きく、知ってしまうとどうしてもこの言葉を通して作品を聴いてしまうほどの力を持っていると 思う。勿論、その後の批評にも影響を与えたであろうし、そうした影響を通して、第9交響曲の受容の仕方を方向付けてしまった発言ではなかろうか。
もっともそれでは、このシェーンベルクの言葉を否定し、かつそれに拮抗しうるような聴き方ができるかどうかと言えば、それはそれで難しそうだ。というのも、 ことは生涯と作品の内容を安直に繋げる安易な伝記主義や、アドルノが揶揄したような「死が私に語ること」式のプログラムの問題ではなく、作品を創作する とともに作品の内側に映り込む主体の様態や作品における「表現」そのものの問題に関わるからだ。そうであれば、どっちみちシェーンベルクの洞察は、 その問題の在り処の指摘については全く正鵠を射ているというほか無いのではなかろうか。(2007.5.12)
だから、このシェーンベルクの発言を、第9交響曲が一面ではきわめて個人的ではあっても、超個人的で普遍的なテーマを持つものとなっていることの指摘と とる考え方があるようだが、そうした意見は控えめに言っても、論理を補完すべき飛躍を含んでいるように思えてならない。少なくともシェーンベルクの言いたいのは、 マーラーが自分自身の死の恐怖を乗り越えて、冷徹に客観的に死をテーマにしている、ということではないのではないか。そしてその結果、作品が超個人的で普遍的な ものになったということではないのではないか。
結局そうした意見に対しては3つの疑問がある。1つは「作品」が超個人的で普遍的であることを保証するのは、「作者」の主題に対する態度なのか、 それは「作品」と「作者」との関係をあまりに単純に捉えていないかという疑問、そしてもう一つは、死の恐怖を乗り越えるという「人生」が、冷徹に客観的に死を テーマとした「芸術」を可能にするというような単純な結びつきが、ここでシェーンベルクの指摘しているような印象の由来なのかという、「人生」と「芸術」との関係に ついての疑問、そして最後に、シェーンベルクの言いたいのは、作品が超個人的で普遍的なテーマを扱っていることなのか、そうではなくて、彼がこだわったのは、 あくまで作品の音調が非人称的なものであるという点に在るのではないか、という疑問である。そうした主張がしばしば、マーラーが個人的な死への怖れを 「主観的な仕方で」作品に刻印したのだという「人生」と「芸術」の関係についての「素朴な」立場に対する異論として提示されるだけに、批判の対象のネガのような、 ある意味では同じくらいの「素朴さ」の論理の展開には些か戸惑いを感ぜずにはいられない。
些事拘泥と思われることだろうが、「超個人的」「普遍的」というのは、ここでシェーンベルクが言いたいこととは少なくとも直接は関係ないし、死の恐怖を克服して、 それを客観視できるようになった「から」、シェーンベルクの証言するような音調が可能になったのではないのではなかろうか。確かにシェーンベルクは第10交響曲について 思い込みをしていたに違いないが、事実誤認のほうはそれとして、その思い込みの先にある考え方―それは上記の引用の少し先で展開されている―の方まで 一緒に捨ててしまったら、シェーンベルクの意図を裏切ることになるように思われる。勿論、シェーンベルクの意図はどうでもよくて、上記の証言をいわば「証拠」として 利用できればいいのだ、という考えであればそれでもよい。だが、私個人はそうは思わない。むしろシェーンベルクが言おうとしたことの方が、第9交響曲の核心に 迫っているように感じられてならないのである。
(2007.6.30初稿, 2024.3.10邦訳を掲載。2024.8.17 noteにて公開)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?