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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(4)

4.

従って、信仰者の立場から、「田園交響楽」がどのように見えるかを確認することは意味のあることだろう。例えば山本和道の 「ジッドとサン=テグジュペリの文学 聖書との関わりを探りつつ」はそうした観点から参照することができる近年の文献だが、 「狭き門」に関しては、そのわかりやすさが、そこで扱われていることの微妙さを取り逃し、ジッド自身の態度の微妙さをも犠牲にし、 更にはそれ自体は全く正当であるドストエフスキーの「白痴」との対比においても、そこで問題になっていることが要求する微妙さを 取り逃しているように感じられたのに対して、「田園交響楽」に関してはそうした点はさほど気にならない。 「狭き門」に関して一般には当然為されるべき(何しろジッド自身がそれと示唆しているのだから) 「背徳者」との対比が為されていない(辛うじて「地の糧」の対比が、他説の紹介というかたちで行われる)のに対し、 「田園交響楽」は端的に「法王庁の抜け穴」との対比のうちに置かれる。主題論的な観点からは、ここに共通性を見つけるのは そんなに難しいことではなかろうから、聖書との関わりにおいて、両者に接点を見出そうとするのは、ある意味で寧ろ殊更に 論を立てるまでもなく自然なことであるし、聖書解釈の恣意性、ジッドのかなり極端な自由主義的な聖書解釈が、 信仰者の立場からどう見えるかについての記述については概ね首肯できるし、それが主として牧師に投影されていることも 問題ないし、「牧師を通して自分の考えを正当化しているわけではない。」「牧師に対する批判も作品から立ちあがるようになっている。」 「作者ジッドは、精神的に盲目で、牧師らしからぬエゴイスティックな生き方をしている牧師を客観視している」というのも異論はない。

そうした山本のコメントの中で最も重要なのは、「牧師ならば、自分の内なる罪から救われるために、自分のために死んでくださった イエス・キリストに帰依することによって、神の愛と恵みに生きる道を見いださせるはずである」「牧師は「隣人を自分のように愛する」ことが できず、利己的に行動し、隣人を苦しめることになってしまった」という指摘だろう。他の作品との比較、評価には疑問なしとはしないが、 この指摘自体は全く妥当なものであるし、ジッド自身の考え方の限界を端的に指摘したものとさえ言って良い。まさにジッドによる パウロの拒絶が、ジッド自身の問題に対する解決の最大のポイントを外すことになっていることが示されている。また、 「ジェルトリュードの死は、牧師による福音書の自由解釈が原因であると見なさざるを得ない」というのも、それ自体は全く正しいし、誤解の多い、カトリックへの 改宗の問題すら、「ジェルトリュードの自殺の原因となったというよりも、改宗の無力さが表現されていると見なすことができる。悔い改めが 有効に働くことなく救われるということにはならなかった」という妥当な指摘をしており、作品全体についても、「最終的に、罪という死の 状態から救われるために、イエス・キリストを通して神の愛により救われるということがなされておらず、反キリスト教的な作品となっている」 と適切な評価をしている。

だが、それなのに、シャルル・ムレールの「感覚的なものの重視や哲学的な熟慮の欠如が、ジッドを信仰から遠ざけたことや、ジッドが 同時代人の宗教的倫理的概念をゆがめたこと」への批判に対して、「自由に聖書を解釈することによって、そこから糧を汲み取ることで、 ジッドが優れた文学作品を生み出したことに意味がある」ということがどうして言えるのか?「田園交響楽」が文学として優れているのは、 「自由に聖書を解釈することによって、そこから糧を汲み取る」が故なのか?決してそうではあるまい。また、「ジッドが神を信仰する道から 逸脱することになったとしても、聖書に対する誠実な彼の態度が、反面教師という意味ではなく、信仰者の文学よりも、 読者に聖書を読むように促し、イエス・キリストの信仰へと導くということもあり得るのである。」の後半は認められたとしても、 「反面教師という意味ではなく」というのは論理的にナンセンスだろうし、彼の聖書に対する態度を「誠実」と呼ぶのもやはり同様に端的に 矛盾しているというほかない。こと聖書の言葉の濫用を牧師にさせる小説を書くことの(もしかしたら、ジッドがプロテスタントへの挑発として、 意図的に狙ったかも知れない)効果に対して無神経でありすぎる。寧ろここにこそ、一方はカトリック、一方はプロテスタントという違いはあるものの、 「法王庁の抜け穴」における宗教への諷刺と並行するものをこそ読むべきではないのか?ジッドがもし、自己の聖書の自由解釈を 自己批判したいだけなら、主人公を牧師にする必要はないではないか。

山本は先行する部分で、チエリが紹介する「田園交響楽」出版当時の「フランスとスイスのユグノー (プロテスタント)を憤慨させた」という反応に対し、「文学作品としては優れているが、信仰の面では逸脱した話となっているので、 信仰者の反応としては、当然考えられるものである。」とコメントしているのである。彼は文学研究者としての立場と、信仰者としての 立場を区別し、文学研究の枠組みの中で、信仰者からはどう見えるかというのを文学作品に対する視点の一つとして扱おうとしているのかも 知れないが、それはジッドの「危険さ」を隔離して分離することで毒抜きをしようとすることに他ならず、恐らくジッド自身の意図にも反して いるのではないか。しかもその分離は徹底しているわけでもなく、「読者に聖書を読むように促し、イエス・キリストの信仰へと導くと いうこともあり得るのである。」という発言もしているわけなので、読者に対してはその主張が首尾一貫性を欠くような見かけを呈することになってしまっているし、 「法王庁の抜け穴」との共通点の検討についても、ピントがずれた印象を与えることになるのだ。山本がしているのは、ジェルトリュードと ラフカディオの比較であり、そこに共通性を見出そうとしており、またジェルトリュードの到達点を、「背徳者」のミシェルに引き比べていて、 それらもまた、個別には妥当な部分もあるだろうが、最初に問題を提示したときに触れた、ソチとレシの違い、まさに文学的な観点での 違いがどのように機能しているのか、それが信仰の問題とどのように関係しているのかについての分析は全く抜け落ちている。 要するに、ここでは信仰と文学的価値は別だということは言外の主張されてはいても、文学的な観点からの検討そのものは 欠落しているという印象を否めない。結果として山本の論で参考にできるのは、信仰者の立場からの内容的な解釈に限定されて しまうことになるのである。

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