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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(14)

14.

牧師が到達した地点は、彼自身が第二の手帖の5月21日の日記に記しているように(Parfois il me paraît que je m’enfonce dans les ténèbres et que la vue qu’on va lui rendre m’est enlevée.)、彼は神話論理的にはまさにオイディプスなのかも知れない。彼は自ら盲目となることを 望んだのかも知れない。「田園交響楽」を「狭き門」の或る種のネガ、恣意的で自己正当化の道具に過ぎない聖書の自由解釈が もたらした「広き門」であると評した人がいたらしいが、それが侵犯行為であり、(デリダの「掟の門前」における掟の、つまり律法の規定に よれば)掟そのものの破壊、門もろとも埋め尽くし、押し流してしまう水の氾濫の如きものなのだ。かくして水は最後の一滴まで流れ去り、 涸れてしまい、残るは沙漠ばかり。最後はコミュニケーション不全の麻痺による荒廃が残るばかりなのだが、それとて、作中人物はともかく、 少なくとも作者のジッド自身が望んだことでないとは言えまい。これはジッドが言うような批判ではなく、自ら招いた現実の荒廃に対する 釈明、もしかしたら居直りに過ぎないのかも知れない。最後に言葉を喪うこと、最早祈りも不可能な状況、それは語りの衝動自体の 死滅でもあるだろう。

第一の手帖は日記のかたちを取りつつ、実際には過去の出来事の物語であり、偽装された物語だという指摘がしばしばなされる。 だが、第一の手帖について偽装を問題にするならば、本来の日記であれば書かれるべきであったこと、つまり、第二の手帖においては 現在の記述となる、その直前の時期に一体何が起きたかが、過去の出来事の回想に覆い隠された挙句、わからなくなっていることこそ 問題にすべきなのだ。寧ろ、なぜその時点の出来事を書かなかったのかに関連して、回想を書き記すことになった真の理由、真の動機が 隠蔽されているはずなのだ。回想の背後で起きていた出来事こそ、第二の手帖で提示される出来事の直接的な前提となっている。 そして、それを隠蔽したかったからこそ、回想を記したという推測すら、あながち勘ぐりとばかりは言えないはずである。 更に臆測を逞しくすれば、最初に綴られる、回想のきっかけの説明、3日間雪に閉ざされたから、というのにすら、真実を糊塗する 操作が介在しているとすら考えられる。その点で「田園交響楽」は、犯人が書き手であるような推理小説のあるタイプに近接している。

それにしても一体、第一の手帖の前半の回想が書かれていた時期、ジェルトリュードはどこにいて、何をしていたのか? アメリーはどうだったのか?そうして考えてみると、それが無意識なものである可能性はあるとはいえ、第一の手帖の背後には 既に第二部の現実が蠢いていて、それに目を瞑るために、過去の回想などを始めたという可能性すら考えられる。 そもそもこの手帖は、自分自身のためのみに書かれたのですらなく、妻のアメリーに読まれていいように、彼女の視線を気にしつつ 書かれているのだ。しかもこの小説には他の視点が用意されていない。従って、浮かび上がる風景自体、初めから歪んだものである かも知れないが、結局のところ読者にはすぐにそれとはわからないように作者によって構成されているのだ。一体どこまでが ジッドの意図したものなのかさえ疑ってみるべきなのかも知れない。もしかしたらこれは悪魔によって書かれた可能性すらある。 そうでなくても、ジッドが悪魔に唆された可能性はある。まさに作中人物であり、語り手でもある牧師がまたそうであるように。

第二の手帖5月10日。C’est au défaut de l’amour que nous attaque le Malin. Seigneur ! enlevez de mon coeur tout ce qui n’appartient pas à l’amour… ここの「悪魔」(Malin)について、例えばドストエフスキーのそれ、「カラマーゾフの兄弟の」悪魔、あるいは「白痴」における、とりわけてもイッポリートの件と 対照させてみること。(何しろ、ここでは「カナの婚礼」さえ参照されているのだ。)愛の欠如が悪魔を呼び寄せる、となればゾシマの地獄、 愛せなくなる地獄を思い浮かべずにはいられない。そしてまさに牧師が辿り着いた砂漠こそ、愛の欠如の状態に他ならない。 彼はアメリーに許しを請うのではない。彼は助力を、自分のための祈りを求める。 だが必要なのはまず、自分が赦しを請うことであり、過去の負債の返却不可能性を認識することであった筈である。己のアメリーに対する罪を 認めず、相も変わらずジャックの姿勢の内に愛の欠如をしか見ないのは、(彼自身の定義に従えば)牧師自身が悪魔に囚われているがゆえなのだ。 戒律を重んじない点において一見すると似ているかに見えるゾシマと牧師の決定的な差異は、寧ろ牧師を悪魔と対話するイワンにさえ近づける。

だが、ジッドの場合には、ジッド自身がそうした心的機制を自覚することが遂になかったように思われる。もしかしたら過去の負債の清算の 失敗には気付いていたかも知れないが、なぜ失敗したかを彼が理解することはなかったように思われる。彼の自分自身の心に対する 盲目性は遂に解消することがない。ジェルトリュードこそ、牧師の観念的で非現実的な(従って、常に実践的なものであるゾシマの それとは異なる)愛の盲目性の犠牲者なのだ。

「法王庁の抜け穴」や「贋金作り」と「田園交響楽」はベクトルの違いがあり、その点もまた決定的な差異であって、それゆえこの物語には 向かい合う価値があると考えるが、それはドストエフスキーであればプロとコントラのポリフォニーの一方に過ぎない。牧師とジャックの分裂は 見かけのもので、イワンと悪魔の対話同様、ジッド自身のモノローグに過ぎず、そこには真の対話は成立していない。ジッドは「贋金作り」 のようにではなく、もっと別様にポリフォニーを構築すべきであったのにそれができなかった点に、致命的な限界がある。

従って、「想像世界のなかで築きあげた美を、作者自らの手でこわしてしまうこと」が「ジッドの作品構成法であり、お家芸」であるといった ような、あるいはジッドの作品を「固定観念のとりこになった人間の悲劇ないし喜劇を」書き続けたものであるといったような若林真の「解説」、 そして自伝「一粒の麦もし死なずば」という題名を「解説」して、「一粒の麦というのは人格を指しているのであって、人格が自意識を持ち 自己中心的であるかぎり、発芽力を持たないのです。人格が真の生命を獲得するには、いったん死に、根本的な変質をとげなければ なりません。ジッドが試みたのは、まさにこれでした。長いこと胸中にくすぶっていた諸問題を、白日のもとにさらけ出すことで、それらを 死滅させ、自己中心的でない別な生命を手中に収めようとしたのです。」といった風な「解説」、そしてその結論するところが、 《自己》から《他者》あるいは《社会》の問題に、関心の的を移しはじめたのが、その何よりの証拠ではないでしょうか。」といった「解説」は 一見したところ、説明になっているようで、実際には問題から目を逸らすことにしかなっていない。もし、それが意図されたものであると すれば、《他者》たる読み手を蔑ろにする姿勢において、欺瞞的な姿勢だし、逆にそうではなくて、本当にそうであると信じていたとしたら、 -しかも、ジッドの自伝の背後にある私生活が、まさにその時点で決定的に破綻した事実を知った上でそうであるとしたら、そうした 解釈こそがまさにジッド風の「誠実」という「固定観念」に容易く屈しているという点で滑稽でもあり、その一方で、そうした単純化が ジッドの作品自体が提示する自意識の問題の深みを徹底的に見損なっているという点で、「解説」としては有害なものですらあるだろう。

勿論、問題はジッドを研究の対象としている者のそうした解説が語るほど単純明快な筈はないし、それは寧ろ作品を読めばわかることだ。 ジッドが病んでいた自意識の病とは、若林の解説のようにして克服されたものではなく、寧ろジッドに憑依し続け、ジッド個人のみならずその 周囲の人間を蝕んでいった。「想像世界のなかで築きあげた美を、作者自らの手でこわしてしまうこと」がお家芸であるとしたら、 それこそがジッドの「固定観念」なのだということに、そしてそれこそが問題なのだということに何故気付かずにいられるのか? あるいは気付かない振りをしているのか?ジッドが蒔いた一粒の麦、それは若林の「解説」が述べたのとは全く異なる仕方で、発芽力を持ちえた。 一度限りの例外として(決して自伝「一粒の麦もし死なずば」ではなく、)「田園交響楽」に、「想像世界のなかで築きあげた美を、 作者自らの手でこわしてしまうこと」という「固定観念のとりこになった人間の悲劇」そのものをその末期的な相において、 恐らくは自らの意図に抗し、意図を裏切るような文体によって定着させることによって、「一粒の麦」となったのだ。 一体、固定観念から自由たろうとした牧師が惹き起こした禍をジッド自身が明確に自覚して作品化しているまさにそのことのみによって、 恰も罪滅ぼしが成就すると考えているとしたら、それは「自己中心的でない別な生命」という自ら記した言葉を裏切っているのだ。

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