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日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(10)

10.

同じ箇所は、アリサの日記と(ジッドがその一部を利用していることが知られている)マドレーヌ・ロンドーの日記とを比較した小坂の論文においても 論じられている。しかし小坂の指摘において重要なのは、それよりもbelle/jolieの使い分けに関するものだ。確かに第1章でジェロームはまず アリサの母をbelleと形容し、アリサ自身には副詞による強調つきでjolieという形容詞を配分したあと、妹のジュリエットに再びbelleを今度は比較表現の中で 割り当てる。だが、アリサ自身が日記の中でLorsque j’étais enfant, c’est à cause de lui déjà que je souhaitais d’être belleと記している。小坂はここに ジェロームの側の精神的盲目を指摘するのだが、それは上で検討してきた多くの指摘と軌を一にするものと言えるだろう。だがしかし、アリサにとって ジェロームから遠ざかることが自然な選択ではなく苦痛に満ちたものであることについては、別段そこに留意せずともアリサの日記を読めば 明らか過ぎるほど明らかなことではないか。そしてこのことをもって「こうしてアリサの実りのない生き方と悲劇的な最期を示した『狭き門』は、 ジッドの言うように«une certaine tendance mystique)»への批判の書となるのである。」という結論に至るのは、この作品の持つ、ジッドのそうした 後付けの定義を超えるものを捉え損ねることになりはしまいか。

jolie/belleの翻訳での対比は、ほとんど正確には為されていない。どちらも「美しい」と訳してしまうようだ。「田園交響楽」では敏感であった白井訳すら、 いずれも「美しい」である。山内訳は、リュシルについては「いたってきりょうよし」(きりょうよしに傍点)にしているのに、アリサとジュリエットのjolie/belleは どちらも美しいで、配分が異なっている。同じことが村上訳にも言えて、リュシルの「いたって美貌」に対してアリサとジュリエットは「美しい」。川口訳、 新庄訳はリュシルを「美人」としている。菅野訳、白井訳、中村訳、淀野訳、小佐井訳はリュシル、アリサ、ジュリエットともすべて「美しい」。 それらに対して須藤・松崎訳はbelleを「美しい」、jolieを「きれい」と訳し分けている。若林訳ではリュシルが「たいへんな美女」であるのに対し、 アリサもジュリエットも「綺麗」とされていて、やはりjolie/belleの対立を訳し分けていない。

ところで、jolie/belleの対立を考えるとき、小坂が言及する箇所の対比のみで事足れりとするには些か早合点の謗りを免れないだろう。というのも、 女性たちを巡るjolie/belleの形容は、何も上掲の箇所に限定されるわけではないからだ。例えば第1章の末尾、題名の由来となる「狭き門」に纏わる 説教に触れられ、更にジェロームの母の死の後、伯母のフェリシー・プランティエがジェロームに向かって話す部分で、ジュリエットの美しさに言及する部分がある。 j’avais pensé… elle est si jolie, si gaie.ここでは、ジュリエットに対してjolieが用いられている。 勿論これは話者が異なるので、jolieという語の使用基準は異なっていいのだが、いずれにしてもこの小説の空間内で、ジェロームの評価と伯母の評価に ずれが設定されていることには留意されて良い。小坂の説の傍証たりうるとする解釈も可能だろう。エピローグにおいて以下のようにジュリエットが、 まさにそうした形容を行ったプランティエの伯母に擬せられている(勿論、ジェロームによって、である)ことにも注意しよう。 Une bonne me fit monter dans le salon où, quelques instants après, Juliette vint me rejoindre. Je crus voir la tante Plantier : même démarche, même carrure, même cordialité essoufflée.
フェリシー・プランティエの言葉がどう訳されているのかについても、以下に纏めておくことにしよう。

  • 中村訳:「…あの娘はとてもきれいだし、とても明るいし。」

  • 若林訳:「…あの子はとっても綺麗で、ほがらかだしね」

  • 白井訳:「あの娘(こ)はとてもきれいだし、とても陽気だし。」

  • 小佐井訳:「…あの子はとても綺麗だし、陽気だし」

  • 菅野訳:「あの娘はとてもきれいだし、とても明るいし」

  • 須藤・松崎訳:「…あの子はとてもきれいだし、とても明るいし」

  • 村上訳:「…あの娘(こ)はとても器量よしだし、なかなか快活でもあるしね」

  • 山内訳:「…あの子はずいぶん"きりょうよし"(原文傍点)で、なかなか陽気だし」

  • 新庄訳:「…あの子供はとてもきりょうよしだし、それになかなか快活な子だね」

  • 川口訳:「…あの娘(こ)はすてきな美人だし、とても快活な娘(こ)だからね。」

  • 淀野訳:「…あれはなかなかよいきりようなうえ、とても陽気な娘(こ)だからね」

一方で、jolie/belleの対立などありはしないのだ、という立場もあるだろう。事実上、ほとんどの訳者は対立を意識してはいないし、上記のフェリシー・プランティエの 例は対立があるとの主張の反例と見做すこともできるだろう。だが、それ以上に、アリサ自身の用法に対立の存在を疑わせる例があるのだ。アリサの日記の日付がない部分、 ジェロームが、フォングーズマール滞在の時期のものとしている部分に、Lorsque j’étais enfant, c’est à cause de lui déjà que je souhaitais d’être belle. という一節がある。 少なくとも子供の頃のアリサは、belleであろうとしていた、と日記を書くアリサは記しているのだ。だが、まずこれは子供の頃のアリサがそう望んだという話であって、現在のアリサがそう望んでいるということではない、アリサは自分もかつては妹のジュリエットが体現しているような美しさをジェロームのために己のものとしたいと願っていた(が、今はそうではないのだ)ということが出来るだろうし、何より、jolie/belleの対立はまずもってジェローム固有のもので、アリサ自身のものではない(し、勿論、フェリシー・プランティエが区別すべくもない)、 という反論も考えられよう。するとこれは、ジッドが仕組んだ、ジェロームの観念とアリサのそれの食い違いを示唆するための仕掛なのか?だがそれは更にもう一度 覆って、ジェロームの観念の犠牲にアリサがなったことを告げているというよりは、ジェロームがアリサの思い(それは観念ということばで片付けることはできない、いわば 実存を賭けた重みがあるのだが)を、少なくともその当時は受け止め切れなかった、ジェロームがそう思ったのとは逆に、アリサの高みにジェロームが達し得なかった ことを告げていると考えるのが妥当だろう。

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