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平成20年秋「山本会」を観に杉並能楽堂を訪れる

「栗焼」山本則直・山本則俊
「鈍太郎」山本則孝・山本則秀・山本則重
小舞「餅酒」山本泰太郎
小舞「暁の明星」山本則重
小舞「海人」山本則俊
「桂の短冊」山本東次郎・山本泰太郎・山本則秀・遠藤博義・山本則重・山本則孝


今年は山本家の狂言を拝見していないな、と思っているところに折りよく山本会のご案内をいただいたので、拝見しに 杉並能楽堂を訪れた。「桂の短冊」という東次郎さん作の新作狂言の再演が含まれる番組とのことでこれが一番の 注目に違いないが、それ以外にも「栗焼」「鈍太郎」の狂言2番に小舞が「餅酒」「暁の明星」「海人」と3番ついた 充実した番組とのこと。実は毎年拝見している年初の「ハゲマス会」を拝見することが体調のせいで出来ず、 その後も何かと慌しくて集中して舞台を拝見する状態になく、今年は見ごたえのある狂言を拝見することは 叶わないかと思っていたところであった。

初めて訪れる杉並能楽堂は、中野富士見町の駅から少々歩いた住宅街の中にある。表札には住所と山本東次郎さんのお名前が 刻まれ、文字通りご自宅の一部が舞台になっている。黒光りした落ち着いた雰囲気の舞台は立派な松の描かれた鏡板ともども、 痛みもあるように見受けるが、それよりは刻み込まれた歴史の重みのようなものが感じられて、私にはとても心地良く感じられる。 お誘いいただいた方から、空襲を奇跡的にも生き延びたこの舞台の辿った数奇な歴史を伺ったが、そうした背景を知るにつけ、 この舞台がとても貴重なもので、それだけに芸の伝承のみならず、それに加えて舞台を管理・維持されるご苦労が偲ばれる。 しかも家の稽古舞台として利用するだけではなく、こうして公演を通じて一般にも公開されているのだ。 見所は桟敷に座布団が敷き詰められて、だが開演の時刻にはほとんど満席の盛況で、お弟子の方々も含め、 熱心な観客の存在を感じさせる。慣れない長時間の正座はじきに膝が些かつらくなってくるが、 折り目正しく格調のある山本家の狂言を拝見するには見所も正座が相応しいようにも思われ、 休憩時間には膝を崩させていただいたものの、舞台はすべて正座で拝見することになった。

「栗焼」は太郎冠者の栗焼の様子を描き出す部分が「見せ場」ということになっており、則直さんの演技の迫真さには圧倒されたが、 寧ろ興味深いのは、縁起を担ぐことを重んじる主人の性向を捉えて、ある意味では主人を丸め込んだとも言える太郎冠者の 機知がここでは少しも嫌味な感じにならない点だった。則俊さんの主人もまた、40-(34+2)=4ではないかと言って「きちんと」太郎冠者の 理屈の欠点を指摘するのもおかしいが、それに対して太郎冠者がこじづけでも説明をしおおせると、あっさり納得するのもまた おかしい。例えば「附子」の結末とは異なって、ここでは追い込みはない。いそいそと橋掛かりを渡って幕の内に入る二人を 些かあっけにとられて見つけるしか見所のやることはない。お二人の呼吸はいつもながらぴったりで、その流れはいつもいつも同じ 言葉の繰り返しで恐縮だが「音楽的」とでも言うほかない、快いリズムがある。古典のもつ揺るぎのない調和は見所を刹那的で 一時的な反応の移ろいにとどまることないもっと大きな何かを遺してくれる。それは決して馴れ馴れしくはならないけれど、今回は舞台の せいもあってか一層親密なものに感じられ、充たされた気持ちになる。この一番でやはり拝見することにして杉並まで足を運んで 良かったと心から思った。

「鈍太郎」もまた、最後にもう一ひねりあるのでは、と感じながら、そのまま終わってしまうのが不思議な感触である。 こちらは若い演者による舞台で、そのせいもあってか、些か流れが滞るような感じを抱く部分もあったが、それは贅沢な 不満というべきで、丁寧に隅々まで注意の行き届いた上演はやはり拝見していて快い。もしかしたら「もう一ひねり」という 感触もそうした丁寧さがもたらす微妙な間合いゆえ知れないが、その一方で、そうした感触を抱かせる何かが作品にあるということ でもあろうから、晴れ晴れと幕に消えた三人がその後どうなるかは、やはり見所の想像力に委ねられているというべきなのだろう。 この作品は下京の正妻と上京の女が鈍太郎を軸に対称な構図になるのだが、それが視覚的にも、反復という経過によっても感じられて、 とにかく非常に美しい。更にいえば対称性は微妙に破れていて、それゆえに最後もまた円満に終わるのだが、その対称性の破れが 二人の女の装束の選択などできちんと表現されているところなどは演出上の配慮の細やかさが感じられて、 見所の感興を一層深いものにしているように感じられた。

小舞を番組に組み込むのは山本家ならではだが、私のように、素人ながら能でも素謡や仕舞を拝見するのがとにかく好きな 人間にとって、小舞を拝見するのは、山本家の狂言のいわばエッセンスを「わかりやすく」見せていただくという点で、願ってもないことで、 今回もまた、特に則俊さんの「海人」を拝見することで、その感激を新たにすることができた。些か極論めいた書き方だが、 この「海人」の小舞一番だけでも私には充分すぎるくらいの素晴らしいものだった。

「海人」は能にもあるし、いわゆる玉の段は仕舞として独立に取り上げられることも少なくなく、すでに私も何回か拝見した ことがあるが、この小舞の持つ力は異例のものであった。印象に残ったところは枚挙に暇がない。剣を見つめて海中に赴く決心の激しさ、 それと呼応するような波濤の飛び散る様の凄まじさ、海中を潜っていく時の海の深さの変化の克明さ、 先ほどまでいた地上を遥かに思いやる視線の遠さと、そこに込められた深い思い、意を決しての竜宮への飛び入りの鮮やかさ、 玉を隠すために我が身を剣で裂くときにあたりに広がる血の色、引き上げられるときの浮かび上がっていく様子のリアリティと、 とにかく鮮烈で素晴らしいの一語に尽きる。それを支える謡の素晴らしさも忘れてはなるまい。 実際には数分の舞を拝見しているにも関わらず、数時間の時が経過したような印象を覚えた。

もちろんそれに先立つ「餅酒」「暁の明星」も見ごたえ充分である。個人的には特に則重さんの「暁の明星」が印象的だった。 前回(といっても昨年のことになってしまうのだが)拝見して、その充実ぶりが強く印象に残ったのだが、今回もまた出ずっぱりの大活躍の中で、 この小舞は特にその清冽な気の漲りの充実に圧倒された。幼少の頃、恐らくは 謡の意味などよくわからない時分より稽古のために何度となく繰り返し舞われているのではと想像するのだが、そうした 積み重ねがあり、そしてご本人の前向きな舞台に対する姿勢があって、かくも流麗で美しく清々しい舞が可能になるの だろうと思わずにはいられない。

最後の「桂の短冊」は、作者である東次郎さんのお人柄がにじみでた、故事や歌の引用などのテキストの重ね合わせなどの 知的な仕掛けも怠りない、奥行きがあって、でも総体としては品の良さを強く感じさせる作品と感じられた。個人的な嗜好からいえば、 桂の作り物を出して実際に短冊をつける趣向や、句会の人数など、もっと簡潔にしても作品の佇まいは損なわれないようにも 思えたが、そのかわり、後半での謡も含めれば山本家の演者が勢揃いしての豪華な舞台は、恐らく横浜での初演時の 企画に由来するものなのであろうし、これはこれで番組の掉尾を飾るに相応しくもある。だが何よりも後半、句会の場から離れて、 東次郎さんの僧形の客人が謡を地に舞う姿には、東次郎さんならではの透明感と静けさに満ちていて、題材からすれば寧ろ 能であっても良いくらいに思えて、でもこれは山本家の狂言でなくては表現できない境地なのであろうと私には感じられた。

というわけで、杉並能楽堂を訪れて拝見した山本家の狂言はやはり素晴らしいものであった。 来年1月のハゲマス会主催の「狂言の会」が今から楽しみである。それとともに、杉並能楽堂の舞台の佇まいもまた 忘れがたく、こちらもまた再訪するのが待ち遠しい。

(2008.11.3,4 執筆・公開, 2024.9.14 noteにて公開)

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