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バルビローリのマーラー:歌曲集・ベイカー(MS)、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団・ハレ管弦楽団

エルガーでも海の絵がそうであるように、否、それ以上にマーラー演奏における歌曲集の 価値は大きいだろう。他のどんな演奏にもまして、親密で気持ちの隅々まで行き届いた この演奏は、マーラーの細密画のような管弦楽伴奏歌曲集に相応しい。
「子供の死の歌」「リュッケルト歌曲集」「さすらう若者の歌」という収録された音楽に 通底するのは孤独感だろう。その孤独の持つ質は驚くほど多様なのだが、その多様性もひっくるめて その孤独感をここまでくっきりと表現した演奏を私は他に知らない。勿論これらの名曲に他の名演が あることを知らないではないのだが、その表現の深さと純度、演奏の徹底ぶりにおいて、この演奏は 群を抜いていると思われる。
とりわけ「私はこの世に忘れられ」を含む中期のリュッケルト歌曲集の響きは細やかさと濃密さとを 兼ね備えた驚異的なもので、こんなに雰囲気のある演奏を他に知らない。

リュッケルト歌曲集のうちのある曲を聴くと、そのありようがバルビローリにとって 憧憬の対象だったに違いないディーリアスの演奏を思わせるようなものであることを感じる。 バルビローリの管弦楽伴奏の特徴は、むせ返るような、耽美的なまでの美しさだ。 バルビローリのマーラーの録音は、その晩年に集中しているが、同じマーラーの交響曲や、 例えばエルガーに見られるような表現主義的ともいえるような緊張感は、 この演奏にはない。意識の音楽という基本はここでも変わることはないが、 ここでの主観は、自分の外へ降り立たんばかりに世界の表情の感受に耽っているようだ。 こうした直接性はバルビローリにおいても例外的ではなかろうか。至福に満ちているのは そうした主観の在り様そのものであって、決して描出される対象ではない。そして ここには交響曲演奏では垣間見ることができた永遠はなく、刹那的といってもよいような 現在があるばかりだ。勿論そうした様態は、時間の経過の中で結局は移ろい行き、 主観はいずれは目覚めるには違いない。そうした有限性の意識があればこその憧憬 なのであって、それゆえバルビローリのリュッケルト歌曲集の演奏は、単なる音画であることが できない。そうした感受を特別なものとして味わいつくそうとする負荷こそが バルビローリの演奏のまごうかたなき徴であって、それを鬱陶しいと感じるかどうかで、 この演奏の評価は分かれるのではないかと思われる。個人的には勿論、そうした負荷が ないマーラーには何か物足らないものを感じているので、結果的にはバルビローリの演奏が もっとも納得の行く演奏ということになっているのである。

より透明で痛々しいまでに繊細な初期の「さすらう若者の歌」においても、室内管弦楽的な書法を 扱うその手つきはこれ以上望むべくもない、徹底したものだ。とはいえ、それはしばしば 今日のマーラー演奏が陥る、解剖さながらの顕微鏡的な精密さの持つ露悪趣味の対極にある。 多分それには音楽と演奏者の距離感のようなものが影響しているのではないかと思う。
第1交響曲がそうであるように、「さすらう若者の歌」のあまりのナイーブさは、そのむき出しの 凶暴さもろとも、ここでは些かも損なわれることなく表現されている。些かの人工臭もなく、 今、その場で生まれたかのように生き生きとした表情を持った音楽は、しかし実際には 極めて知的でよく抑制されたベイカーの歌唱と、いつものように極めて周到な事前のプランに 基づくバルビローリの徹底した解釈により成し遂げられているのだ。 最初の一音符から最後の音が鳴り終えるまで、聴き手は息をこらして聴き入るしかない。 まさに時の経つのを忘れて、「この世に忘れられ」て音楽に聴き入るしかない。

バルビローリの管弦楽伴奏による連作歌曲集はおかしな喩だが、浄瑠璃に似ていて、音楽が澱みなく 流れていくうちに語り手の心情と、いわゆる「模様」とが描き出されていくように思う。 風景が語り手の中に入り込み、そして心理状態によって風景が変容するのが、 余すところなく実現されている。魔法のような春の野辺がそこに出現する。 空気のもつほどよい湿度、ときおりそよぐ、ややもすると肌寒さを感じるような爽やかな風、 透明な光のなかの風景が音楽によって描き出されていくのだ。
勿論、これは描写音楽ではない。 それは例えば能の囃子や謡が風景と心情とを何もない舞台に表出してみせるのに似ていると思う。 幸か不幸か、この録音には映像が残されていないので、丁度素浄瑠璃を聴くような感じで 物語を追うことになる。バルビローリの演奏では 優れた名人の浄瑠璃や謡を聴くのと同じように、ただ聴き入りさえすれば、そこに心象と風景が 立ち現れ、それを眺めているうちに一気に全曲を聴いてしまうことになる。風景といっても、 ここで外付けで映像をつけることなど考えられない(そもそもが音楽のもともとの文脈に忠実であること など眼中にないヴィスコンティはともかく、ラッセルのあの醜く、音楽に対して不当というほかない 惨憺たる映画、あるいはこれまた音楽を裏切ることにしかなっていないように見えるバレエの振り付け などの例を思い浮かべても良い。)そうではなくて、演奏会の、あるいは録音セッションの模様を伝える 画像つきのメディアも最近は珍しくないが、バルビローリを聴くのであれば、 そしてベイカーの歌唱を聴くのであれば、音だけの方が良いかもしれないくらいだ。
ベイカーの声の質も、バルビローリの紡ぎ出す音楽の持つ雰囲気とあっており、過度の官能性や 感情表現のくどさからは程遠い。その知的で温かみのある歌唱は、逆説的に作品の背後にある むき出しの傷を浮かび上がらせるゆえに、その歌を聴くのが逆につらくなりもするだろう。
能や浄瑠璃でもしばしばそうであるように、歌詞の陳腐さは取るに足りない。演奏がそれを 真正なものにしてしまうからだ。思弁をさそうような含意も、語り手の心理を分析してみせる 怜悧さも、フィクションを対象化する醒めた視線によって描き出される官能性もここにはない。 一つ一つの音が耐え難いまでの緊張と溢れんばかりの感情の負荷を帯びて、音楽は劇的な頂点で 荒々しいまでの力で聴き手の息を奪い、突き抜けて行く。

「子供の死の歌」について語ることは私にとっては不可能だ。これは聴いてみてくださいと 言う他ない。そこに込められた感情の深さが、かえって中心にある空虚を剥き出しにしてしまう、 ほとんど残酷と形容したくなるような凄みがこの演奏にはある。丁寧で気品に満ちた歌唱なのに、 優しく温かみのある血の通った管弦楽伴奏なのに、あるいは、それゆえに。
例えば「こんな嵐に」は嵐の激しさをそのまま写しとりはしない。その嵐の前に立ち尽くす人間、 嵐の中でなす術もなく、かけがえのないものを喪ってしまう経験こそが表現されるのだ。 終曲、第1曲でも響いたグロッケンシュピールの響きとともに音楽が静まっていき、ついに音楽が ニ長調に転じて始まる子守歌の部分では、音楽はそこで鳴っているのに、ずっと遠くから聴こえるように思われる。
私の主観的な見方かも知れないが、この曲の悲しみは、実にこの子守歌で頂点に達するのだ。 この子守歌には、喪失の受容と諦観が伴っている。意識は天国にはない。 意識は地上にあって、いなくなってしまった子供が神様に守られている天国のことを思うのだ。 安らぎはここにはない。喪ったものはもう、元には戻らないから。 嵐が過ぎた後というのは、その前と同じではない。もはや全てが前とは異なっているのだ。
演奏時間にしてたった30分足らずの5曲よりなる歌曲集だが、この演奏を聴き終えると何かが すっかり変わってしまったような気持ちになる。

(些か恥ずかしい話だが、個人的には、とりわけ「子供の死の歌」をこの演奏で聴いて涙を堪えるのは 非常な難事で、だからこの曲をコンサート会場で聴くのはちょっと怖くてできないと 思っているほどである。能や文楽のようなものであれば演奏会場で涙を流しても咎める人は いないだろうが、そういう意味では、是非はともかくとして、事実として、私はマーラーの音楽をほとんど、 能や文楽のように聴いているのだという事になるのだろう。勿論クラシック音楽であっても、メンゲルベルクの あの「マタイ受難曲」ライブのようなケースもあるけれど、今の日本のコンサートホールの在り様を 考えると、やはり些かの違和感を感じずにはいられない。これは「子供の死の歌」に限ったことではなく、 マーラーの音楽全体に言えることで、ある時期以降、マーラーを聴くためにコンサートホールに足を 向けるのを躊躇っているのは、そうした要因が大きい。最後に聴いたマーラーは、もう15年以上前の 第6交響曲だが、このときもまた自分の情緒的な反応をコントロールするのにひどく苦労した、 否、完全にはコントロールできなかったのを覚えている。第6交響曲もまた、私にとってそういう意味で 「確実」な、外れのない音楽なのだ。「はしたない」「上品でない」と批難されるかも知れないが、 私はマーラーをそのようにしか聴けない。そしてバルビローリのマーラーはそうした私の聴き方を 咎めるようなタイプの演奏ではないように感じている。)

(2002.4 公開, 2024.7.31 noteにて公開)

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