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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(13)

13.

第二の手帖には、直ちに指摘されたという日付の錯誤がある。即ち、ジェルトリュードの入院期間の設定と、退院の記録のある日付の矛盾である。 しかもそれは1931年に出版されたDorothy Bussyの英訳では修正されているらしい。即ち5月21日に手術のために入院したジェルトリュードの退院予定は 20日後ということになっているのに、5月27日には翌日帰宅することが告げられ、5月28日に帰宅して、同じ日に入水、5月29日に牧師と最後に対面し、 5月30日の見出しの日記で物語は終わってしまう。それに対して英訳は6月8日の日記で翌日帰宅が告げられ、最後は6月11日と、整合するように 訂正されているとのこと。草稿段階から辿れば日付設定の不自然さは更に拡大するようだ。5月19日の夜の出来事を、ジッド自身の現実の経験を 記念すべく日付を合せたことが一連の不整合の原因であるらしいことは実証的な研究により判明しているようだ。 しかし、第一の手帖の冒頭の矛盾がそうであったように、そうした事実で説明できることは、過誤が起きた外面的な条件の側面に限られる。 結果的にジッドはこの日付の矛盾を放置したのだが、それは一体何を意味するのか。

まずジッドが自然主義的な枠組みを軽視していたというのはその通りなのだろう。だが、実際にはおかしいのは日付だけではなく、この牧師の 手記を装った形式自体が、その手記の内容によって、あちらこちらで破綻を来たしていて、しかもそれは既に第一の手帖から始まっているである。 (第一の手帖の聖書引用「思い惑うこと勿れ」がルカ伝ではなく、マタイ伝によると誤って注記されることも、そうした破綻の一つに数えてもいいだろう。) その破綻が自覚的、意識的に企まれたものであれ、気付いて見過ごされた、従って作者にとってはどうでもいいと判断されたものであれ、 あるいは無意識的なものであれ、私見ではこうした点にこそ、ジッドがこの作品で扱おうとした主題にどのように向き合ったかを示していると思われる。 「田園交響楽」はレシに分類されるが、この作品は意図せず、 レシのパロディーなのではないか。アルベール・ティボーデは「この作品中のまことの盲人である牧師は、広く開かれた門の下を福音書の流れの通っているのをみる。 そして彼は心の衝動のままにその流れとともにその門をくぐる」と言っているようだ。つまり「広き門」、まさに滅びに繋がる途を示したパロディーなのではないか。 ここで牧師が参照する聖書、牧師の自由解釈の恣意によって読まれる聖書は、「思い惑うこと勿れ」がマタイ伝の12章29節にあるような代物だというのも、 そう思えば不思議はない。ちなみに、盲人を癒すのは、イエスの示した奇跡の一つであった筈だから、ここでは奇跡と信仰の関係への暗示さえ認めうる かも知れない。

ジェルトリュードの喉の渇きは、十字架上の七つの言葉の一つを厭でも思わせる。勿論これはキリスト教的というよりは、一般に神話的な供犠の構造を 持っているのだろう。ジェルトリュードは犠牲の羊なのだ。ジャックへの牧師の口づけは、ユダのそれを思わせるという指摘もある。キリスト教的な形象は いわば再利用される。

冒頭、雪に閉ざされた中で、夢で見たかのような、だが実際には己の過去である湖の風景のとともにジェルトリュードとの出逢いが描写されるのに対し、 最後には、ジェルトリュードは「眠っている」。それは昏睡であり、そのまま死に繋がるものであった。ここでは最早、「夢」が介在する余地はないかに見える。 そして牧師の心には湖の代わりに砂漠が残る。ところで、喉の渇きというのは、既にあのジェルトリュードが想像上の風景を語る日に、牧師自身によって 語られているのだ。

– À quoi les comparerai-je aujourd’hui ? À la soif d’un plein jour d’été. Avant ce soir elles auront achevé de se dissoudre dans l’air.

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