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バルビローリのブラームス:第4交響曲・ウィーンフィル(1967)

 この音楽は、作曲の意図においても「回想」というベクトルが顕わな、 非常に風変わりな作品だ。これくらい、実質においても様式的な志向においても はっきりと過去を向いた作品は、他に思い出すことは難しい。 ここでは実質と様式は一見、拮抗することなく足並みを揃えて追憶に 耽っているかのようだ。そしてバルビローリの演奏もまた、情緒纏綿とそうした 志向を強調しているかに思えもするだろう。

 しかし、バルビローリの演奏では「回想」の持つ意味合いはかなり 異なってくる。音楽はここでは、作曲の意図をもしかしたら越え出て、 まっすぐと経験そのものを語ろうとする、その強度がブラームスが冷徹に 準備した古風な構成的な契機と激しく拮抗するのだ。従って、この音楽に、 実質と様式の後ろ向きな、これ一度限りの調和を見出そうとする人にとって、 バルビローリの解釈は許容しがたいのではなかろうか。なぜならバルビローリの 音楽は、もしかしたら消去してしまいたかったかも知れない、基調の衝動の ごときベクトル性を寧ろ飼い馴らすことなく明らかにするからだ。 案に相違して、あろうことかこの第4交響曲が第3交響曲同様彷徨しかねないのだ。 バルビローリの演奏は、あからさまな諦観にも関わらず、真に依拠できるものは、 実は移ろいの裡にしかないという認識の実践なのである。ソフォクレスの悲劇を 想起したという作曲者の衝動に、この演奏こそ忠実なのだとさえ言えないだろうか。

 もしこの演奏が今日懐古的な受容のされ方をするとすれば、それは演奏自体が 回顧的な情緒に満ちているからではないだろう。寧ろこうしたバルビローリ的な 意味での「回想」自体が今日困難になっている、こうした存在様態が「時代遅れ」の ものであることに由来しているに違いない。

(2005.1公開, 2024.8.21 noteにて公開)

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