アンドレイ・エシュパイ
私のエシュパイとの関りは、専ら彼がフィン・ウゴル系の民族の一つであるマリ人の父を持ち、父の研究対象であったマリの民族音楽のイディオムに深く根差した作品を生み出した作曲家であるという点に拠るものである。例えば彼の第3交響曲は父親への追憶として書かれた作品だが、一聴して明確に聴き取ることができるように、その音楽は所謂「ロシア的」なものとは一線を画しており、マリの民族音楽のイディオムの影響は明確であろう。この点に関して、例えばかつてWebに存在したOnno van Rijenの Soviet Composer's Page(現在はWayback Machineのコピーで確認できる)のエシュパイの項目では、そのスタイルの説明として以下のような指摘をしていた。
彼の音楽の表現の特異性がマリの民謡に由来することから始まり、極北の自然のエッセンスを蒸留したかのような管弦楽法、シンコペーションを伴うリズム処理におけるバルトークの音楽との関わりに触れた後、もう一度オスティナートとリズム上のずらしの交替の利用がマリの民族音楽に由来するという指摘であるが、これは実際に彼の作品をある程度まとまって聞いた印象と概ね一致しており、首肯できるものと考える。この指摘が意味するのは、エシュパイの音楽にとってマリ人が住んでいる土地の風土や音楽的伝統が、単なる音による描写の素材であったりエキゾチックな雰囲気を醸し出す効果のための素材であるといった通俗化した「国民楽派」的なイディオムのレベルに留まらない、本質的なものであることを告げており、旧ソ連における文化の公式のイデオロギーであった「形式においては民族的、内容においては社会主義的」といった硬直化した「社会主義リアリズム」とは(その出発点はともかく結果としては)距離を措いたものであることを告げている。
エシュパイの作品の幾つか、それも著名な幾つかを一聴してあからさまなジャズのイディオム面(特にリズム)や楽器編成上の活用は、旧ソ連においては退廃した西欧の文化の象徴としてしばしば排撃の対象となった筈であるが、ここではそうした文化的な記号として機能しておらず、同時に例えばシュニトケが「引用」を行った時のイデオロギーへの抵抗の身振りのようなものとも無縁で、奇妙に根無し草のような雰囲気を帯びていると私には感じられる。突飛な譬えと捉えられるかも知れないが、スクリャービンにおけるショパン的な作品ジャンルやイディオムが、もともとのショパンにおいては民俗的なルーツとの繋がりを持っていたものが、身体性を欠いた奇妙に抽象的なものに変容してしまっていることを思い浮かべてしまう。敢えて比較の対象を求めるならば、上に引用した文章で指摘されているバルトークの音楽(ジャズということならまず「コントラスツ」が思い浮かぶ)よりも、マルティヌーにおけるモラヴィア風のリズム処理の自在さとジャズ的なイディオムの奇妙な混淆の方が近いようにも思える。もっともこのことは寧ろ、単に私自身にとってジャズが疎遠なものであることに由来しているに過ぎないかも知れない。
それに比べれば、マリの民族音楽も含めた地理的・文化的風土とエシュパイの音楽との関りの様相は私にとってずっと違和感のないものであるが、こちらはこちらで私がエシュパイの音楽に関心を抱いた経緯に拠ったものに過ぎず、そうした偶然的な要因を超えた何かがそこにあるかどうかは必要なら別途検討するべきであろうが、私のエシュパイへの関心はマリ人という民族やマリ語という言語への関心に先立たれていて、そこから謂わば派生したものなのである(そしてこれは例えばシベリウスやバルトークの場合とは順番が逆であり、ヤナーチェクの場合とは同じ順序であった)。それではマリ人への関心の由来はと言えば、私が音楽を聴き始めて間もなくの中学生になったばかりの頃に出会って強く魅了されたシベリウスの音楽が、直接民族音楽に由来する素材を用いるといった、いわゆる「国民楽派」の典型的なイメージとして思い浮かべるような仕方ではなく、だが明らかに西洋の音楽の伝統とは異なる時間の流れや風景を感じさせるものであり(それ故私が魅了され、今日なお聴き続けているシベリウスの作品は、マーラーによって「通俗的なまがいものの節まわしが例の≪北欧的≫な和声とやらという国民的ソースをまぶして料理されていた」(1907年11月2日付ヘルシンキ発のアルマ宛の書簡、引用は酒田健一訳の『回想と手紙』白水社版による)と評されたような初期の作品(正確を期すならば、ここでマーラーが言及しているのは、マーラーが聴いた10月29日夜のカヤヌス指揮のコンサートで演奏された交響詩『春の歌』op.16とアンコールとして演奏された『悲しきワルツ』であることが判明している)、フィンランドナショナリズムのアイコンとなった「フィンランディア」などではなく、フィンランドの民族叙事詩「カレワラ』に取材した『クレルヴォ』や『レンミンカイネン』連作のような交響詩をはじめとする一連の作品群でもなく、最初に出会った作品である第2交響曲を除けば、後期の交響曲と交響詩「タピオラ」の数曲のみである)、結局のところその独自性の一部はフィンランドという国の地理的・歴史的条件やフィン人という民族の言語や文化的伝統に根差しているように思えたことが起点にあった。特に言語については、フィンランド語はヨーロッパで主流のインド・ヨーロッパ語族とは異なる系統の言語であり、(実はシベリウス自身の母語はスウェーデン語であり、フィンランド語は後から習得したものなのだが、にも関わらず)特に後期のシベリウスの音楽のリズムやアクセントに、フィンランド語の持つ、印欧語とははっきりと異なった特徴がこだましているように感じられたこともあって、フィンランド語をはじめとするウラル語族に関心を持つようになり、その中でも特に民族の故地と想定されるウラル山脈の西側に程近い、ヴォルガ川の沿岸に今なお居住するマリ人やモルドヴィン人、ウドムルト人といった民族と言語にも興味を持つようになったのがきっかけなのである。
とはいうもののインターネット普及前で、海外の情報へのアクセス手段が限定されていた時代であり、ましてや冷戦の「鉄のカーテン」の向こう側について、地方都市に住む平凡な子供が入手できる情報は事実上皆無に近く、ようやくまとまった情報に接したのは、ウラル語学者の小泉保さんが公刊した『ウラル語のはなし』を入手したのが最初であったと記憶するから、昭和が終わり平成になってしばらくしての時期ということになる。同様にして、旧ソ連圏の作曲家とその作品に接することができるようになったのも、LPの時代が終わり、CDが急速に普及するのと並行して、ゴルバチョフが登場し、ペレストロイカが推進され、それまではカーテンの向こう側にあって手が届かなかった様々な情報へのアクセスが可能になってから以降のことである。
だがそれ故にこそ一般的な了解としては、まさに上記のSoviet Composer's Pageの中で取り上げられていることが物語るように、寧ろエシュパイは所謂「旧ソ連(ソビエト連邦)」の作曲家の一人として紹介されてきたように思われる。エシュパイは1925年の生まれだからロシア革命後のソ連で生まれたことになるけれども、そのソ連が1985年のゴルバチョフのソ連共産党書記長就任以降、ペレストロイカの時期を経て1991年に崩壊に至るのと並行するように、1980年代中葉以降、ソ連圏の作曲家のうち、特にその後西側に亡命するなど、体制に順応的ではない作曲家の一群がECMレーベル等により西欧に紹介され、西側の「前衛」の行き詰まりに替わるようにして社会主義リアリズム一辺倒と思われていた鉄のカーテンの向こう側の多様な個性を備えた作曲家達に脚光が浴びるようになったのであったが、エシュパイの名前はその中に含まれることはなかったように記憶する。彼の経歴を辿ると、ソ連作曲家同盟書記として作曲家同盟の要職を占め、ソ連人民芸術家の称号(1981年9月)を受け、国家賞(1976年、マヤコフスキーの詩によるカンタータ «Ленин с нами»(『我々のレーニン』)およびピアノ協奏曲第2番)、レーニン賞(1986年、オーボエ協奏曲(1982)、«Песни горных и луговых мари»(『山地マリ・牧地マリの歌』, 1983)に対して)を受賞していることが確認できる。そしてこれら受賞作も含めた幾つかの作品については録音された演奏が存在して旧ソ連の国営レーベルのレコードとして知られていたようだから(それ故CDの時代を経てネットワーク経由でのダウンロードやストリーミングでの視聴が主流になる一方でLPレコードが再び持て囃されるようになった近年は、希少価値を持つとしてネットオークションなどでも時折見かけるようであるが、当時の私は辛うじて風変りな名前の作曲家がいるくらいの認識で、その作品に接することはなかったのだが)、その限りで寧ろソ連の有力作曲家の一人として、ペレストロイカの時代以前から「知る人ぞ知る」存在であったというべきなのだろう。
ちなみにエシュパイのソ連作曲家同盟書記としての活動を伺わせる証言が、意外なところにあるので備忘を兼ねて紹介しておきたい。イヴァシキン編『シュニトケとの対話』(秋元里与訳, 春秋社)の第3章はショスタコーヴィチを巡っての対話から開始されるが、その後チシチェンコの話題になったところで、ソ連時代の作曲家同盟に纏わるエピソードが紹介される。その中で、この対談において唯一エシュパイへの言及が為される箇所がある(邦訳、p.125~6)。ヴォルコフ編の偽書『ショスタコーヴィチの証言』によってすっかり「悪役」として人口に膾炙することになった作曲家同盟議長フレンニコフに対する賛成投票をシュニトケが拒否した時に、チシチェンコが明確な擁護の姿勢を示したことが語られるのだが、そのくだりでエシュパイが登場するのである。以下、エシュパイが登録する箇所の前後を引用する。
チシチェンコについての話題はこれで終わって、次のやりとりではシチェドリンに話題が移ってしまうのだが、生涯の出来事について語る箇所でも、他の作曲家が話題になる箇所でもエシュパイへの言及はなく、あからさまにフレンニコフの「一味」、その「手下」という役割で描かれている上記の引用箇所が唯一の言及であることからして、シュニトケはエシュパイを自分に敵対する側の人間と看做している上に、作曲家としては全く評価していないということが伺える。イヴァシキンもシュニトケ本人も言及しておらず、注釈もないため、事前に予備知識がなければ知りようがないことだが、後述するようにシュニトケは、ラコフ、ゴルベフの門下であるという点においてエシュパイと同門であり、シュニトケ本人は勿論、イヴァシキンにとってもそのことは言わずもがなの前提知識であった筈である。そしてそのことを踏まえて、エシュパイの方がシュニトケに比べて10年年長であることから考えれば、エシュパイとしては同門の弟弟子に対して、或る種の気配りをしたということなのであろうが、反体制的な立場から見れば、エシュパイは体制に順応し、もしかしたら反体制派への迫害に関与した可能性すらある、胡散臭い存在ということになるのだろう。これもベルリンの壁の破壊に象徴される、旧ソ連および旧ソ連圏の崩壊の後、所謂東側で活躍し、名声を獲得し、ともすれば「芸術的良心」として語られさえした存在が、第二次世界大戦後のドイツでのネオナチへの加担の告発と同様に、体制側の秘密警察のスパイであったり、密告をこととする協力者であったといった事例が溢れた時期があった。そうした点で、旧ソ連の体制崩壊以前に出版されたこともあって一般に強烈な衝撃をもたらし、その後も影響力を持ったのは、ヴォルコフ編の『ショスタコーヴィチの証言』だろうが、そこには上で言及したフレンニコフについての「証言」だけではなく、スターリンによる「形式においては民族的、内容においては社会主義的」といった硬直化した「社会主義リアリズム」のイデオロギーの下で、少数民族の作曲家が、その民族の自治共和国において権勢を恣にし、剰えその名前の下でゴーストライターによる作品の偽造さえ組織的に行われていることについての証言、しかもこのケースについては具体的に固有名まで明記した証言があった。(ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』, 水野忠夫訳の第5章「わたしの交響曲は墓碑銘である」にあるムスタル・アシュラフィ(参照文献の訳に従う。英語表記ではMukhtar Ashrafi)の例。 中公文庫版ではp.309以降。実はこの箇所は盗作についての話題の一部であり、ウィリアム・シューマンの或る交響曲をそのまま書き写して自作の交響曲として発表したさる女性作曲家に関する話題に後続している。『証言』では「少数民族」の作曲家に関するエピソードもそれなりの紙幅を費やして語られているが、この部分ではなくもっと後、第六章「はりめぐらされた蜘蛛の糸」に含まれている。但しそこでは特定の作曲家の固有名への言及は確認できる限りではないようだ。)現在では偽書説が確定したとはいえ『ショスタコーヴィチの証言』の証言内容の真偽は別問題であり、個別に検証される必要があるものの(そのせいか、ムスタル・アシュラフィはWikipepiaにエントリが存在するけれど、そこには『証言』での告発内容についての言及はないようだが、『証言』の内容のファクトチェックをやった研究者の報告である Allan B. Ho and Dmitry Feofanov, Shostakovichi's War, 2011, rev. 2014 では『証言』の内容を裏付ける証言が得られたという記述を見かけた。(同書の IV. Corroborating Testimony, 1. Shostakovich on Figures in His Life, c. Mukhtar Ashrafi の項、pdf版では p.100 以降。))、少数民族の作曲家が置かれた地位は、もともと極めて不安定で脆弱なものであったことは疑いなく、公然と批判の対象となったアヴァンギャルド(例えばロスラヴェッツのことを思い起こして頂きたい)と違って、一見したところイデオロギーと対立しないばかりか親和的でさえありうることから、却ってその態度においてショスタコーヴィチのような「ロシアの作曲家」の場合とはまた異なった屈折を孕まざるを得なかったことは疑いないだろう。エシュパイに話を戻せば、彼は「形式においては民族的」という側面に関して自分の民族的出自を利用する一方で、ロシアの作曲家」として振る舞うことで、想像を絶するような苛酷な体制の中を生き延びたかも知れないのである。今ではその良心を疑うものがないように見えるショスタコーヴィチでさえ『証言』が出る遥か以前から、体制順応派として否定する向きから、ダブルミーニングを駆使して内部で抵抗を行っているのだと擁護する向きまで、毀誉褒貶相半ばする状況であったことを思い起こしてもいいだろう。
とは言いながら、だからと言って旧ソ連やロシアの外部の人間がエシュパイを「ロシアの作曲家」の一人として一括りにしてしまうことが正当化される訳ではない。これはECMレーベルで紹介された作曲家の一人でもあるグルジア出身のギヤ・カンチェリについて記した時に触れたことだが、かつて21世紀になって間もない頃、「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」というゴールデンウィークに開催される日本国内の音楽祭にて「ロシア音楽」がテーマになった年があった。新書の体裁をとった著名なロシア文学者の手になる「ガイドブック」では「ロシア音楽」の名の下、既にロシア連邦には所属していない、だがそれを言えば、旧ソ連の時代でさえロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の構成体ではなかった筈の国であったり、非ロシア人であることが明らかである作曲家が取り上げられていたのに違和感を抱いたことを記憶している。記憶する限り、ガイドブックで取り上げられるのは専ら既述の西側で有名になった作曲家たちであり、エシュパイは取り上げられていなかったと記憶しているが、上述のようにエシュパイはロシア連邦の構成主体の一つであるマリ・エル共和国(1990年に自治共和国から共和国への昇格を宣言)の作曲家であるだけでなく民族的にもマリ人の血をひいているわけだし、冒頭に引用したSoviet Composer's Pageの記述にもあるように、その音楽における出自の民族に由来する特徴は明らかなのだから、ガイドブックでもし取り上げられたらという仮定をするしないによらず、彼を「ロシアの作曲家」というラベルの下に括ってしまうのはエシュパイの場合にも無理があるように思われる。
関連してもう一つ実際にあったことを書き留めておくと、これまたWeb上のさる著名なオンラインCDショップのサイトのエシュパイの紹介で、「父親の故郷、旧ソビエト・マリ自治共和国」という言い回しを見かけた。これだとまるでエシュパイ自身はマリ自治ソビエト社会主義共和国(出生当時の自治共和国名称)の生まれでないかのようだが、実際には彼はコジモデミヤンスクの生まれ、ここはマリ自治ソビエト社会主義共和国以来、今日のマリ・エル共和国に至るまでマリ族の自治共和国内にある。ヴォルガ川はカザンまでは西から東に向かって流れ、カザンで90度曲がって北から南に流れるのだが、マリ・エル共和国は東西に流れる部分の主として北岸を占め、その上流よりにあたる西の端の一部で南岸を含んで広がっている。共和国の首都ヨシュカル=オラが北岸の平地(後述のように「牧地マリ」と呼ばれる)にあるのに対し、コジモデミヤンスクはマリ・エル共和国の南岸に並行して広がるチュバシ共和国の首都チェボクサルよりも更に上流にさかのぼったマリ・エル共和国西端のヴォルガ川南岸の丘陵地帯(「牧地マリ」に対して「山地マリ」と呼ばれる)の中心都市なのだから、父親のみならずアンドレイ・エシュパイ本人も自治共和国の生まれなのである。
アンドレイの父であるヤコブ・エシュパイはマリ人であり、自分の出自であるマリ族の民謡の研究家であった。一方アンドレイの母親はロシア人だから、ロシアではごく普通のことで、そうした族外婚が普通であることが少数民族にとっては民族のアイデンティティーを持つ人口を減少させる要因になりもするのだが、アンドレイはマリ人とロシア人の両方の血をひいているわけだから、その限りにおいて「ロシアの作曲家」という規定は必ずしも無根拠ではないことになる。更にアンドレイが最初に父親から音楽教育を受けた後に正規の音楽教育を受けたのはモスクワ音楽院(グネーシン音楽院)においてであり、ピアノをスクリャービン弾きとして著名なソフロニツキーに、作曲をシュニトケやデニソフ、ボリス・チャイコフスキーといった著名な作曲家の師でもあるラコフ、交響曲作家として著名なミヤスコフスキー、更にはミヤスコフスキーの弟子であり、これまたシュニトケの師でもあるゴルベフに学んだようであるし、後には短期間とは言え母校の教授も勤めていたようであり、更に没したのはモスクワであることを含め、彼が生きた「ミリュー」を考えれば、彼を「ロシアの作曲家」と呼ぶのは不当でないばかりか一定の正当性を備えているという主張を否定することは難しいだろう。ましてやマリ・エル共和国はロシア連邦の一部であり、マリ人はロシア連邦内の少数民族の一つである。更に言うならば、旧ソ連時代にマリ人を基幹民族とする自治共和国として成立し、更にソ連崩壊に際して主権宣言を行ってマリ・エル共和国になったとはいえ、今日のマリ・エル共和国においては僅差とは言えロシア人の方が人口が多く、しかも傾向として、1920年に成立したマリ自治州以来、当初こそマリ人の方が多かったとはいえ、マリ人は徐々に減少し続け、遂には逆転してしまったという経緯もある。マリ人の減少の原因は既述の族外婚などによるロシア人への同化であり、その傾向はソ連崩壊後一時弱まったものの近年再び強まっており、特に最近になって自治共和国内において基幹民族ではない(とはいいながら既述の通り、マリ・エルの場合には僅差ではあるが人口が最も多いのはロシア人なのだが)ロシア人の権利保護という名目で、公用語の地位にある少数民族言語の教育が必須でなくなったり、文化的領域を除いた公的な領域でのロシア語の優位が強化される傾向が顕著なようである。結果として公用語とは名ばかりで、利用機会は家庭とか地域コミュニティでの会話に限定されて公的な場ではロシア語で話すというダイグロッシアが日常化し、地方では使われていても都市部での利用頻度は低く、更には教育の場での地位が危うくなるのに応じて学校で子供が使うのもロシア語ばかりで民族固有の言語を使うことができない状況すら珍しくないという状況がますます強まることになる。マリ・エルに住んではいても、ロシア人にとってマリ・エルはロシアの一部に過ぎず、ヨシュカルオラはロシアの地方都市の一つであるというのがマリ・エルに住むロシア人の普通の認識のようでさえあるから、名ばかりの基幹民族に過ぎないマリ人との間の認識の溝には深いものがあるようだ。
そうした言語のおかれた地位の不安定さのそもそもの原因は、旧ソ連の自治共和国の財政がソ連の予算に直接依存していたのを引き継ぐようにロシア連邦の予算へ依存しているために、自治共和国の政治体制は極めて保守的で、その政策がしばしば基幹民族である筈の少数民族に対してあからさまに抑圧的すらあることに存する。かつてはほとんど直接アクセスすることができず、情報も極めて乏しかったロシア連邦内の様子も、インターネットの発達の恩恵を被って、今では文字情報は勿論、画像や動画によって、かつては現地を訪れなければ知ることができない情報もひっくるめて、自宅に居ながらにしてアクセスできるようになっているのだが、インターネット経由で見ることのできる首都ヨシュカル・オラの中心部はマリ語での「赤い街」という意味の通りに赤い煉瓦の色がひときわ目立つ西洋風の真新しい建物が立ち並ぶ様が印象的でも、よく見ると人影もほとんどなく、利用されているかどうか怪しい建物があるかと思えば明らかに作りかけと思しき一角もありで、箱物ばかりが整備されても活用されず一向に賑わいが戻らない日本の地方都市を思わず思い浮かべてしまう。調べて見ると実際この街並みは、2001年から2017年まで長期に亘りマリ・エル共和国の首長にあたる政府議長をつとめたレオニード・マルケロフの肝いりで整備されたもので、現在も建設は継続されているものの、期待された経済効果を生み出すことなく負債ばかりが積み重なり、その果てにマルケロフが収賄容疑で逮捕されて首長が変わっても補助金頼みの体質が変わるわけでもなく、財政は膨大な赤字を抱えるばかりという状況のようである。マルケロフは新型コロナ禍の最中に罹患して死亡したロシアの極右政治家ジリノフスキーが率いていた「自由民主党」に所属し、その後首長在任中の2015年にロシアの政権与党である「統一ロシア」に鞍替えししているが、既に有罪が確定した汚職だけでなく、反体制派への暴力を伴う抑圧や少数民族の迫害の廉で批判が絶えない人物である。ちなみに彼はモスクワ生まれのロシア正教徒のロシア人であり、マリ・エル生まれでもなければマリ語も話せない。それまでの長い歴史に亘ってほぼ一貫してそうであったように、先住者のマリ人のもとに資源その他の利権を求めて外部からやって来て入植し、ほとんどの場合暴力をもって支配者となった人々の一人であると言えるのではなかろうか。Web上でしばしば欧風様式の美しい街並みといったコピーで紹介される一方で作りかけの(あるいは何かの事情で閉鎖されて間もない)テーマパークのようにも見えるヨシュカル・オラの中心の人気のない街区は勿論、第一義的には自治を認められた基幹民族のためではなく、ロシア系の支配者の虚栄の産物でしかないようにさえ感じられる。
かつては鉄のカーテンの向こう側であった旧ソ連地域も今日では比較的容易に旅行して訪れることが可能になっていて、数は少ないとはいえ、Web上でマリ・エル共和国訪問の記事を幾つか確認できるが、その中にはヨシュカル・オラの駅周辺の警官の多さ、バザールでの写真撮影の禁止など、ヴォルガ川の下流側、東西から南北に向きを変える地点に位置するカザンやヴォルガ川北岸にあるヨシュカル・オラから見て対岸に位置するチュボクサル(既述の通りキリスト教に改宗したトルコ系民族の自治共和国であるチュバシ共和国の首都)といった周辺の都市と比較した時の特異な印象が記録されていたりもするし、本稿執筆時点では確認できなくなっているが、ロシア国内で邦人が被害者となった治安上のトラブルの事例としてヨシュカル・オラで発生した事案が掲出されていたこともあった。
更にロシアのウクライナ侵攻が当初の予想に反して失敗し、ロシア軍の劣勢が隠しようがなくなった末に予備役動員にまで追い込まれるようになるにつれて、前線に送られて死傷したロシア兵の多くがロシア国内の少数民族の出身者で占められ、予備役徴集にあたっても同様に少数民族出身者が「狙い撃ち」されているといった報道を目にするようになった。ただし日本語で読むことができる記事で直接マリ人が対象となったものはほとんどなく、管見では2022年4月22日のKOREA ECONOMICSという京都のシンクタンクが運営しているWebニュースサイトで、マリ・エルの現地紙の報道に基づく記事を確認することができたのが唯一である。マリ・エルの現地紙「yocity12」の報道によれば、4月13日に戦没したロシア軍第6工兵連隊の指揮官ナガモフ大佐(享年41歳)は、ススロンゲール村で生まれで地元の学校を卒業、ここ数年はヤロスラブリ州ロストフ市の工兵連隊の隊長を務めていたとのこと。この記事は「露軍上級将校がまた戦死 「第6工兵隊ナガモフ大佐が作戦中に殺害」現地紙」という見出しが告げているように、寧ろこれもそのころ盛んに報道されていたロシア軍将校の犠牲者の多さにフォーカスした記事なのだろうが、「(…)報道は、ロシア軍のウクライナ侵攻で死亡したヨシュカル・オラ(マリ・エルの首都)の原住民2人がすでに埋葬されたと伝えている。(…)」とも述べており、記事では「原住民」と呼ばれている少数民族、つまりここではマリ人の犠牲者が出ていることを証言する記事にもなっている。(なお、この記事の「原住民」という言葉には差別的な意図はなく、後述のように、マリ人は5世紀には現在居住している地域にいたことが考古学的な調査などで確認されており、その後この地に侵入してきた「タタール人」と総称されるモンゴル系やトルコ系の民族、更にその後に侵入してきたロシア人に対しては先住者であるのだから字義通りに捉えれば正確ですらあるのだが、そうしたニュアンスを感じる人がいるかも知れないという以上に、ロシアの自治共和国の構成主体となる少数民族を「原住民」と呼ぶことは管見の限りでは無いので、どうしてもぎょっとしてしまうのは避けがたい。)もう一つ、この記事を読んで思い浮かべたのは、後述するようにマリ人が紀元5世紀以来居住してきた地域は、色々な民族が通り過ぎ或いは支配した場所であり、しばしば戦乱の巷となったようだが、そうした歴史の中でマリ人は精強をもって知られたという記述が小泉保『ウラル語のはなし』にあったことである。曰く「チェレミス兵は勇猛の誉れが高く、その後も、国外の戦役にたびたび利用させられた。」(同書 p.40)とある。ここで「その」というのはイヴァン4世がカザンを攻略した時であり、「チェレミス」というのは近隣の別系統の民族によるマリ人の他称であるが、その名称の一部は「軍隊」を意味するらしい。ともあれそうしたマリ人の歴史を思い浮かべると、今回のウクライナ侵攻にマリ人が従軍していることは何ら珍しいことではなく、これまでの歴史の中で繰り返されてきたことに過ぎないのかも知れない。
上述のような例は、それが事実であったとしても、マリ人だけに起きたことではないかも知れないし、マリ人だけに有意に高頻度ないし深刻なレベルで生じている訳ではないかも知れない。また例えばレオニード・マルケロフのケースにしてもそれは彼固有の個人的なものに過ぎず、例外なのではないかという冷静な反論があるかも知れない。実際、前者については、マリ人よりも遥かに深刻な状況に置かれている少数民族も数多いし、既に「死滅」してしまった民族もある中で、自治共和国の基幹民族であり、その言語もまた曲りなりにも公用語の地位を与えられ、特に近年インターネットでの発信や情報交換が可能になると、寧ろデジタル・ネットワークのヴァーチャルな空間の方での言語の利用や文化の発信が活発になるといった状況すら出てきており。結果として紙媒体の書籍としてのマリ語の文法書や辞書、教材へのアクセスを果たせずにいるうちに、Webでpdfで文法書がダウンロードできるようになり、オンライン辞書や翻訳システムが利用できるようになり、youtubeでマリ語の入門のヴィデオ教材が簡単に入手できるようになっているし、マリ・エルとマリ人、マリ語についてのロシア語以外での情報も飛躍的に増えている一方で、マリ語による発信や交流も行われていて、マリ語版のWikipediaもあれば、テキストコーパスの構築も進んでいる。民族固有の文化の継承を目的としたNPOもSNSやyoutube等を用いた発信をしており、こうした面だけを見ると現実の空間の中でのマリ語やマリ人が置かれている状況の深刻さが却って見えなくなってしまう懸念を抱く程である。ロシア連邦を構成する共和国、州や地方の政府の腐敗と様々な領域に及ぶ怠慢も特段マリ・エル固有の問題ではなく、寧ろロシア全体に蔓延しているとはいえ、既述の周辺地域の主要都市に比べた時のヨシュカル・オラの雰囲気は、一見して華々しいプロジェクトが行われている「進んでいる」地域のように見えるところに限って利権を巡っての癒着や争いを背後に抱えているという悪しきサンプルとなっているという見方もできて、マリ・エルの置かれた状況が決して前途に明るい展望が開けているとは言い難いように感じられる。
既述のようにマリ人というのはフィン・ウゴル系の民族であり、ウラル山脈の西側のヴォルガ川流域あたりを故地として遠くフィンランドにまで辿り着いた民族グループのうち、故地のすぐ近くに留まったグループの一つ、ヴォルガ・フィン族の一部とされていて、5世紀頃には既に現在マリ・エル共和国のある場所に居住していたことが考古学調査等によって確実視されている。その後マリ人の居住地は、まず現在のヴォルガ・タタール人がその末裔とされるヴォルガ・ブルガールに支配されて以降、日本ではキプチャク・ハン国として知られるモンゴル族の国家ジョチ・ウルス、カザン・ハンといった国の領土となった。なおマリ人は、かつては寧ろチェレミス人と呼ばれることが多かったようだが、チェレミスというのはトルコ系のチュヴァシ人がマリ人を呼んだ他称に由来するらしい。一方「マリ」というのは自称であり、これもしばしばあるように、マリ語で「人」を意味している。マリ・エルというのも「マリ人の国」の意味のマリ語による自称である。ロシア人がこの地を支配するようになったのはようやく16世紀も後半に入ったモスクワ大公国の時代であり、こうした様々な民族との交錯の影響は、やはりフィン・ウゴル語族に属するマリ語に存在する大量の借用語が雄弁に物語っている他、形態論的水準および統語論的な水準においても語族を異にするトルコ系の言語の接触の痕跡が数多く指摘されている。(その具体的な様相について日本語で読める文献としては、小泉保『ウラル語のはなし』『ウラル語統語論』がある。)マリ語は幾つかの方言を持つとされるが、ヴォルガ川の北の平地にあるマリ・エル共和国の首都ヨシュカル=オラ(マリ語で「赤い街」の意味)を中心にヴォルガ川の北岸の平地で話されているのが「牧地マリ語」、南岸の丘陵地帯で話されているのが「山地マリ語」で、エシュパイの生まれたコジモデミヤンスクは「山地マリ語」が話される地域の中核的な都市なのである。
冒頭に触れたレーニン賞受賞の理由となった«Песни горных и луговых мари»(1983)を『山地マリ・牧地マリの歌』と訳したのもそれ故なのだが、この分裂もまた、この地域でのタタールとロシアとの衝突の名残とされ、牧地マリがタタール人側に、山地マリはロシア側について、分かれて戦ったとされる。(このことは日本でも戦国時代に、家系断絶を避けるために兄弟が敵対する勢力に分かれて戦うといった事例を思い起こさせるが、マリ人は、近隣の同系の民族であるペルム人とは異なって統一的な国家を形成したわけでもなければ、侵入者を避け、故地を離れて居住地を移動することなく、その場に留まる選択をしたという点では一貫している(但し、その一部は遥かに東に移動して、本体とは遠く離れて散居する東マリ方言を話すグループを形成するようになったが)ので、これは単にマリ人を構成する部族ごとに与する勢力が異なったということに過ぎないようであり、寧ろ人類学で言うところの双分制度に近いものを背景としていると考える方が良いのかも知れない。)ちなみにマリ語の下位区分の方言については大きく4つを区別するのが一般的なようであるが、そのうちコジモデミヤンスクを中心とする山地マリ方言、首都ヨシュカルオラを中心とする牧地マリ方言は、旧ソ連時代の自治共和国において公用語としての地位を獲得し、規範となる標準語が存在して教育が行われ、キリル文字を若干拡張した正書法が定められて出版も行われているが、両者の中間地帯の北西部の方言と既述の通り、現在のマリ・エル共和国の領域の遥かに東に離れてタタールスタン共和国からバシコルトスタン共和国内にかけて点在する東方言とは公的な地位がないために、他民族の接触の中でその存続は危うい状況にあるようだ。また公用語の地位を持つ2つの方言も、確認できる限りではその状況は決して対等ではない。公用語の地位を形式的に持ちながら、その保全の状況は想像されるような安定したものでは決してないことについては既述の通りであり、常に他の言語との接触の中でも様々な意味合いで圧倒的な優位性を持つロシア語への置き換えの強烈な圧力に常にさらされ続けてきたし、今なおそうであるが故に、話者人口のような基本的なデータですら調査によってかなりの数値のばらつきを示していて状況を認識すること自体に困難があるというのが現実のようだ。現時点で最もそうした情報が集約されているWebサイトであるELP(Endengered Language Project)で確認できる限り、牧地マリ語の話者人口については4種類の調査結果があって、いずれも40万~50万人という値が得られているのに対し、山地マリ語は概ね5万以下で最小で3万、最も多い数値で6万6千人の話者を数える(なお、ELPのサイトでは、牧地マリ語は「東マリ語(Eastern Mari)」、山地マリ語は「Western Mari」という名称を用いていること、ここでは東マリ方言はエントリを持たず、北西マリ方言は区別されていないという点に留意する必要がある)。要するに概ね、牧地マリ語10に対し山地マリ語1という極めて偏った分布となっていて、山地マリ語の状況が牧地マリ語に比べて一層脆弱であるのは確実のようだ。
そうした歴史の中でマリ人は宗教に関しては古来からの伝統的な信仰を強く保持していることで有名であり、近隣の非ロシア系民族でもキリスト教(ロシア正教)を信仰するようになる中で、フィンランドの民族叙事詩『カレワラ』に書き留められ、その近くではエストニアの南東に居住するセトゥ人もまたその信仰を今なお堅持している多神教的な自然崇拝を今でも守っており、それゆえに(ウラル山脈から西を「ヨーロッパ」とする立場から)「ヨーロッパ最後の異教徒」と呼ばれることもあるようである。マリ人の伝統的な神話体系は今日では Jugorno と名付けられた民族叙事詩に纏められているが、その成立は遅く、ようやく21世紀になってからのことで、Anatoli Spiridonovにより編纂され、まずロシア語で2002年に出版された後、牧地マリ語に翻訳され、ついでエストニア語に翻訳されてから西側で一般に知られるようになったようだ。これは近隣のウドムルトの民族叙事詩Dorvyzhyが同じくロシア語でではあっても既に1920年代に書かれたのに比べると非常に遅く、寧ろソ連解体後の伝統信仰や伝統文化の復興の動き、特にかつての伝統的な自然崇拝を復興させる、ないし今日的な形態で再構しようとする「ネオペイガニズム(Neo Paganism)」の活動との関りで捉えるべきなのだろう。そうした動きはマリ人のみに限ったことではなく、旧ソ連圏のフィン・ウゴル系民族の場合、いずれもソ連解体後に活発化しているようだが、マリ人においては例えばMari Ushemという団体の活動を挙げることができる。他方、ウドムルトの民族叙事詩Dorvyzhyも、ウドムルト語への翻訳はようやく2004年になってからだし、エルジャ・モルドヴィンの民族叙事詩であるMastoravaは1994年にエルジャ語で刊行されていて、これは前二者に寧ろ先行していることになるが、これらもやはり同様に、ソ連解体後のそうした動きの一つとして捉えることができるだろう。
そしてこの点は、フィンランド人であるシベリウスと、マリ人であるエシュパイの音楽に数多ある差異の中で、確かに感じ取れ、かつ極めて基本的な認識構造における共通点に通じているように思われる。フィンランド人は後にキリスト教を受容しており、そのことが『カレワラ』の末尾にマリア伝説が差し込まれ、カレワラの神話世界の終焉を示唆する構造になっているのだが、だからといって伝統的な習俗が全く失われたわけではないし、ヨーロッパ全体で程度の差はあれキリスト教の影響力が後退していく過程でネオペイガニズムが盛んな地域の一つとしてフィンランドを挙げることができるだろう。そして遥かに1世紀は時代を遡るシベリウスについてもそうした傾向に通じる面は確実にあって、伝記的・外面的な事実としてルーテル派を信仰するスウェーデン系フィンランド人の家系であるとはいえ、すっかり世俗化した生活を送っていたようだし、音楽作品への反映というアスペクトについても、ジャンルとしての「キリスト教=宗教音楽」の不在は作品リストを眺めていて直ちに気が付く特徴の一つだろう。シベリウスの『カレワラ』に取材した一連の作品群が今日のネオペイガニズムに影響を及ぼした可能性を考えることができる一方で、「キリスト教=宗教音楽」の不在を埋め合わせるかのようなフリーメイソンのための一連の作品の存在もまた無視することはできないだろう。だがそれよりも私にとって重要に思われるのは、交響曲や「タピオラ」といった標題性から距離をおいた抽象度の高い作品群においてはっきりと感じられる垂直方向の超越性の感覚の欠如である。要するにその音楽における宗教性の欠如は単に素材としての問題に留まらず、根源的な認識態度の問題なのだ。音楽は森の中に入っていくがこの世に留まる。秩序はこの世のものでありイデアルなものではない。トゥオネラとこの世は往還可能なものなので、それは寧ろ未知の土地に似ている。超越が垂直方向の運動であるとしたら超越はここにはない。勿論より大きな秩序というのは予感されるがその秩序は隠された次元であるわけではない。ある瞬間に日常的な風景がこの世ならぬものの息吹を受けて変容する奇跡のような瞬間はない。ほとんど人間的なものから離脱してしまいながら啓示とも奇跡とも無縁な音楽に定着された認識の様態は西欧的なものと根本的に異質なもののように感じられるのである。
そして上記のような構造は、マリ人の伝統的信仰の存続とエシュパイの音楽に定着された認識の様態との間にも極めて類似したものが見出せるというのが私の印象である。エシュパイの音楽は、その抒情的で旋律的なブロックと、時として暴力的と感じられる程に強烈なビートを持つブロックとの対照からか、しばしば「爆裂系」という形容がされ、それは冒頭で検討した意味合いにおいて「ロシア音楽」の特徴の一つであり、従ってエシュパイの音楽はそうした「ロシア音楽」の一翼を担うという認識に通じているのかも知れないが、同じく「爆裂系」の音楽とされるカンチェリのそれが、その時間性においてユニークなものであり、肌理の粗い単純な類型化を拒んで、グルジアの風土に根差したものであるのと同様に、エシュパイのそれも、冒頭引用したOnno van Rijenの Soviet Composer's Pageの指摘にあるようにSoviet Composerの中にあってunusualなのであり、それはマリ人の認識の様態の特異性と構造的に対応しているのであろう。かくして同じ「爆裂系」であってもカンチェリとエシュパイのそれは全くといっていいほどに異質なもので、カンチェリのそれが人間の秩序とは異なった、時として超越的な何かに由来するもので、カンチェリの音楽が明示的にグルジア正教会の典礼音楽であるわけではないにせよ、否、寧ろそうであるが故に一層、グルジアの風土と極めて早期にキリスト教を受容したことで形成された世界の認識の様態の反映であるのと対照的に、エシュパイのそれは、より人間的な制度や社会構造がもたらす暴力と超越を欠いた多神教的な認識様式に基づくものに感じられ、際立って対照的でありながら、「爆裂系ロシア音楽」といった皮相な捉え方を拒む点では共通しているのではなかろうか。そしてエシュパイにおいては、そうした基本的な構造において類似したものを探すとしたらシベリウスが真っ先に思い浮かぶのである。
従ってその共通性は、フィン族とマリ族が同じウラル系であるが故に、素材としての民族音楽に共通性があるからといった表面的な次元でのみ捉えられるものではない。そもそもシベリウスは素材として民族音楽を直接用いることを拒絶することについては極めて意識的であり、マーラーの批判にも関わらず自己を「国民楽派」の作曲家として規定することを拒絶していたし、学問的実証の水準で、地理的に隔たった同族の民族の音楽の間に起源を同じくするという意味合いでの通時的な関連を証明するのはこれまた全く別の水準の議論であって、フィン族とマリ族の民謡を少しばかり聞いて感じ取れたと錯覚する程度の類似は何の傍証にもなりえないことに留意すべきだろう。
一般にマリ人の音楽について考える時、西洋のクラシック音楽の中ですぐに思い浮かぶのは、既述の通り他称に基づく民族別称であるチェレミスの名を冠したフィンランドの作曲家ウノ・クラミのチェロと管弦楽のための『チェレミス幻想曲』かも知れない。実際この作品はマリに取材したものであり、フィン族とマリ族の同族意識に基づくもののようだが、一聴したところ感じられるのは、こと私個人の印象に限っては、マーラーが初期のシベリウスの小品を聴いて感じ取った「紛い物」を聴かされているのではという微妙な違和感である。その一方で西進しヨーロッパに定着したウラル民族のもう一方の枝であるウゴル民族の一員であるハンガリー人(自称はマジャール人)の作曲家であり民族音楽の研究者でもあったコダーイとバルトークは、マジャール民謡とマリの民謡の幾つかの類似点を根拠にマジャール民族の音楽のルーツをヴォルガ川流域に求める仮説を立てている。実際にはこの仮説は弟子による現地調査に基づく検討の結果、既に今日では否定的な結論が出ているようだが、音楽の系統関係の同定というのは言語の系統関係の検証に比べてなお一層の方法論上の困難が伴うだろうし、学問的に厳密な系統関係については留保ないし否定的な見解が結論であったにしても、マリの民族音楽を聴いた印象がそうした仮説を呼び覚ますに足るような類型論的な共通性を備えていることまで否定し去るのは、それはそれで行き過ぎた挙措であろう。
寧ろ音楽の類型・系統的な観点で一層興味深く、かつ謎めいて私に感じられるのは、音楽におけるポリフォニー的な側面の有無である。多様で複雑なポリフォニー様式を備えた民族音楽で著名なグルジア人であるジョルダーニアの『人間はなぜ歌うのか』は、単純なものから複雑なものへという一見自然に感じられる発展の方向性とは逆に、音楽は言語以前の起源の段階ではポリフォニックであり、言語獲得とともにモノフォニーが生じたという興味深い仮説を提唱した著作だが、そのポリフォニーとモノフォニーの地理的分布について述べた章の中で、ヴォルガ川流域についての記述を読むと奇妙なことに気付く。曰く、
とあるのだが、まず何れもフィン・ウゴル族であるモルドヴィン人(既述の通り、マリ人とと同じヴォルガ・フィン族であり、マリ人から見ると南側のヴォルガ川流域に広く拡散して居住している)とコミ人(フィン・ウゴル族の支脈のペルミ・フィン族に属し、かつてはペルミ公国という独立国を形成し、後には北方に移動することで後から侵入してきた他の民族による征服を免れた)については、ウラル山脈から見るとヴォルガ川の向こう側にあたる南西側に広範囲に散らばって居住するに至ったモルドヴァ人と、既述のタタール人の侵入を逃れるようにしてヴォルガ川流域から遥かに北方に移動したコミ人の居住地を「ヴォルガ川とウラル山脈の間」と呼ぶのことは、正確さの点で問題あるように思える。だがそれよりも奇妙なのは、コミ人と同じペルミ・フィン族であり、ウラル民族の故地と擬定される地域であるヴォルガ川の支流域に住み、マリ人と同様にタタール系の影響を強く受けたウドムルト人に加えていずれも同地域に居住するトルコ系の民族であるバシキール、タタール、そしてチュヴァシへの言及があるにも関わらず、何故かマリ人への言及がないことであろう。歴史的に様々な民族が交錯し、今なお多くの民族が入り混じって居住する地域の特性か、民族や言語の系統毎に固有の特性を持つような単純な分布にはなっておらず、系統の異なる民族が接触することで宗教や文化を相手から摂取することはごく普通に起きているため、かなり地域の離れたコミとモルドヴァの共通性も、フィン・ウゴル族のウドムルト人とトルコ系の民族であるバシキール、タタール、そしてチュヴァシが音楽的に類似するのも不思議ではないのだが、それならば同じくこの地域のほぼ中心に位置するマリも含まれて当然に思われるにも関わらず、唯一マリだけが取り上げられていないのには奇異の念を抱かざるを得ない。
そしてマリへの言及がないことを、不注意による言い落としなどではなく、文字通りに受け止めた時には、ヴォルガ川流域からウラル山脈の西側に居住する民族のうち、マリ人のみがポリフォニーに関しては周囲とはやや異なった音楽的伝統を持つという分析がなされていることになる。急いで付け加えなくてはならないのは、ここでの議論の対象は、コダーイやバルトークの仮説がそうであったような、起源に関する問いではないということである。そうではなく、起源や系統の議論は一旦排除して、飽くまでも類型的な観点での類似と相違を問題にしているのである。冒頭に引用したエシュパイの音楽のスタイルは、これも偶然かも知れないにせよポリフォニーの観点を含まない。だがもしそれが偶然であったとしても、結果としてポリフォニーに関する指摘がないこと自体が、控えめに言ってもマリ人の音楽がポリフォニーにおいて特段特徴的ではないか、ポリフォニックではないことを証言していると考えることができるだろう。但し、ジョルダーニアの著作の図を見る限りでは、仮にマリ人が周辺民族のポリフォニックな伝統とは異なる側面を持っていたとして、その特徴は、彼らを囲繞するスラヴ系のヘテロフォニーの類型に属していることになるのかも知れない点には留意すべきであろう。ポリフォニックでないとは言っても、一足飛びにモノフォニーというわけではなく、従ってモノフォニックとされるフィンランドやエストニア、ハンガリーの東部からルーマニアにかけての一帯との共通性を意味するわけでないかも知れないのである。結局のところ、周辺とは異なった特徴を持つ「孤島」のような地域にあって、よりによってまさに自分が知りたいと思っている対象についての情報だけが、まるで測ったかのようにぽっかりと抜け落ちているという状況の前に、茫然と立ち尽くす他ない。
勿論こうした点についても、民族音楽学者であるならばともかく極東の異国に住む平凡な市井の徒である限り、かつてであればせいぜいが自分が偶然アクセスできた文献での記述に基づく検討のみに終始せざるを得なかっただろうし、よしんばそうした偶然に恵まれたとしても、どの見解が妥当であるかの判断など能くするところではないだろう。だが今日であれば実際にyoutube等でアクセスできるマリの民族音楽を自ら聴くことは可能である。とは言い乍ら、それではその結果として適切な判断が下せるかどうかはまた別の問題であって、専門的な知識がない人間が臆断を弄ぶことは慎むべきであろう。それ故ここではそうした学術的な見地での検討ではなく、その音楽に接した時に受ける「感じ」、その音楽を聴くことによって、そこに引き込まれることになる時間性の感受の様態を、引き込まれる側から記述することに留める他ない。実際にはマリ人のものだけではなく、近隣のウドムルト人のもの(「ブラン村のおばあちゃんたち」というユニットがひととき注目を集めたのは、実はウドムルトであったが)であったり、モルドヴィンの中でも特にエルジャ人の伝統的な音楽と言語や宗教を同時に比較しつつ聞いてみる限りでは、それらの間には明らかな共通性がある一方で、使用される楽器とか、ここで問題にしているポリフォニーのあり方には微妙な差異を認めることができるように思われ、従ってジョルダニアのくだんの記述が、単なる言い落としなのか意図的なものなのかは判然とし難いというのが正直な感覚である。強いて言えば概ね複数の人間によるコーラスの形態をとる近隣の民族の歌唱に比べると、マリ人のそれは、楽器の伴奏を伴った独唱の比率が高いように感じられるが、これが単なるサンプリングの過程で偶然生じた偏りに過ぎないのかどうかについては、結局のところ判断するに足る情報の持ち合わせがないことを認めざるを得ない。
その限りで私にとってエシュパイの音楽は、上に述べたギャップを直接埋める代補として機能しているように感じられる。そしてそれがあくまでも代補であって、欠如しているピースそのものではありえないということは再び、シベリウスの音楽とフィンランドの民族音楽や文化、風土といったものとの関係を私に想起させる。結局のところフィンランドの風土や文化を見たというのはどちらかというと思い込みであって、そこに見出すことができるのがフィンランドの風土や文化の反映であったとしても、私にとって尽きせぬ魅惑の根拠となっているのはシベリウスが見出し感受した限りのそれであり、正確を期するならば、私が惹かれるのは、自己の外部の感受によってシベリウスという主体が立ち上がる様態そのもの、その時間性なのである。そのことを私がはっきりと自覚したのは、フィンランドの伝統的な民族音楽と並んで、シベリウス以外のフィンランドの作曲家の音楽を色々と聴いた末に、幾つかの例外を除けばシベリウスの音楽に含まれていて私を魅了する音調を見出すことができそうにないと感じた折のことだった。同様のことがエシュパイの音楽の中にも言えて、それがマリの風土や文化を素材としていること以上のものがあるように感じられるのである。それゆえ初期シベリウスの小品に対する或る意味では正当なマーラーの非難が後期のシベリウスの交響曲や「タピオラ」に対しては成り立たないのと同様に、エシュパイの音楽のすべてではないにしてもそのうちに一部には、「国民楽派」的な民族性ともスターリン的に定義づけられた社会主義的リアリズムにおける民族性とも異なった水準での特異性を認めることができるように思えるのである。
その一方で、私にとってエシュパイの音楽をシベリウスのそれのように聴くことは困難なのだが、その理由を考えてみると、エシュパイの音楽には彼が生きた政治的な体制がもたらしたに違いない屈折が映り込んでいることにありそうである。しばしばエシュパイの音楽について言われる折衷性もまた、それを作曲者本人が積極的に選び取ったかとは恐らく無関係に、そうした屈折の直接的な産物だったのではなかろうか。無論これはエシュパイの音楽がシベリウスのそれに純度において劣っているとしてエシュパイの音楽の価値を切り下げることを意味しない。そのような態度は或る種無い物ねだりに過ぎず、寧ろ音楽そのものへのアクセスを妨げるものでしかないだろう。個別的な水準では、冒頭に触れてそこでは私個人の嗜好の問題として一旦整理したエシュパイの音楽におけるジャズ風の要素は、そうした屈折を証言するものなのかも知れない。特にそれが人が呼ぶところの「爆裂」に関わるのだとしたら、カンチェリとの比較のところで述べた外部から侵入する暴力が、エシュパイの場合には超越的で非人間的なものではなく、より人間的な水準の政治的な抑圧とか社会体制に基づくものであることを告げていると考えることができるのではないか。エシュパイその人が、そうした体制の中で、少数民族の出自という所与に基づき、生き延びるために受け入れた順応は、もしかしたら心理的には攻撃者への同一化のようなレベルにまで及んだのかも知れない。シベリウスの音楽は己の周囲で猛威を振るう陳腐なものに対して身を退き、おしまいには「謎の沈黙」と呼ばれる仕方で対抗したが故に、その音楽の中では生活の資を得るために書いた小品におけるキッチュな側面はあるとしても、彼がそこに己が寧ろ受動的に従うべき論理を見ていた交響曲作品、特に後期のそれら(ここには「タピオラ」が含まれると私は考える)には陳腐な要素は含まれていないのに対して、エシュパイの場合は、寧ろマーラーの場合に通じる(だがこれはエシュパイの音楽が、マーラーに似ているという意味では決してなく、屈折が音楽に避け難く映り込んでいるという構造上の同型性を言っているに過ぎないことは強調しておきたい)陳腐さの音楽そのものへの侵入が避け難かったということを証言するものと私には見えるのである。一方でエシュパイの音楽にはマーラーの音楽におけるような複層性や、バフチン的な意味合いでのポリフォニックな側面が欠けている。それ故私にとってエシュパイの音楽は、それに出会うことによって己の認識のモードが根こそぎ変容させられるような存在にはなり得なかった。だけれどもそれは決して旧ソ連で大量生産された類の陳腐化した社会主義リアリズムの貧弱でトリヴィアルな遺産ではない。一周回って再び、その音楽に接する時の何か割り切れない印象は、マリ人の置かれた状況をより詳しく知るにつれて感じる居心地の悪さと並行していて、エシュパイの音楽は、寧ろそれ自体が私にとっての「異邦人」、自分が直接対面することができず、直接歓待することもできない存在として立ち現れるものになっているのである。
ここに及んで私は、この文章を書き記しておきたいという己の衝動が、そうした歓待の困難を証言しつつ、為しうる限りでの歓待の意の表明しておきたいという動機に駆動されていたことに気づくのである。それゆえこの文章は、そうした気づきを明記することで閉じられるべきなのだ。このようにして。
(2022.11.20初稿公開, 11.22加筆, 11.26『ショスタコーヴィチの証言』およびThe Shostakovich's Warについて加筆, 2024.6.27 noteにて公開)
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