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「第114回川崎市定期能」(川崎能楽堂・平成30年8月11日)

「第114回川崎市定期能」第2部
能「融」

シテ・香川靖嗣
ワキ・宝生欣哉
アイ・竹山悠樹
後見・友枝昭世・狩野了一
笛・栗林祐輔
小鼓・森貴史
大鼓・大倉慶乃助
太鼓・林雄一郎
地謡・長島茂・金子敬一郎・友枝雄人・内田成信・大島輝久・佐々木多門


「融」を拝見しに川崎能楽堂を訪れる。香川さんの「融」は2度目。記憶する限り、香川さんの演能で同一演目を2度拝見するのは初めてではないか。前回の記録を紐解くと、喜多流職分会2002年11月自主公演能(喜多六平太記念能楽堂・2002年11月24日)の最後の演目だったようだ。ワキ・工藤和哉、アイ・三宅右矩、後見・佐々木宗生・内田安信、笛・一噌幸弘、小鼓・大倉源次郎、大鼓・柿原崇志、太鼓・金春惣右衛門、地謡・大島政允・出雲康雅・粟谷明生・梅津忠弘・松井彬・金子敬一郎・佐々木多門・大島輝久という演者による演能で、当時はまだ能を定期的に拝見するようになって間もなくのことで、メモ書き程度の短い感想として、「「融」はシテの姿の美しさが何よりも印象的。月の光が満ち溢れるような透明感、高貴さの 中に時折ふと執着の相を垣間見せる融の大臣の表情に驚いた。終結で天上へと戻っていく様は 鮮やかで、ワキの僧の留拍子に思わず、今まで眼前に繰り広げられた光景への驚きの気持ちを 投影してしまった。」と書き留めてあるだけ。だが、この舌足らずの短い感想を書いたことはほとんど忘れてしまっていても、演能そのものの印象の方は、遥かに強く、消し難く刻印されていて、とりわけても後場の舞の鮮やかさと、舞台に溢れる月の光の感じは褪せることなく、15年もの歳月が経過したことに驚いた。

以下、今回の観能の感想を記すが、いつもの通り、それは多分に私の個人的な文脈が影響したものとならざるを得ない。シテは同じでも、ワキ、アイ、地謡、囃子方も異なる。いや、同じ演者であっても15年間の様々な経験があるのだが、それ以上に、目黒の舞台と川崎能楽堂の違いから始まって、当日の体調や心理状態に加え、こちらもまた(観能に留まらない)様々な経験と、その延長にある直近の文脈(何に関心を抱いているか、或はもっと端的に、その時に読みかかっている本は何かetc.)とが観能の方向性を決定づけることは避け難い。それを前提に、端的な印象を述べれば、何よりも今回、この「融」という能が、今日的な言葉で言えば、ヴァーチャル・リアリティを巡っての、だが実際にはその言葉が通常持っている意味合いを超えて、ヴァーチャリティそのものについて、数百年の年月を超えてなおますます光輝を増すかにさえ見える透徹した認識と、その可能性の徹底した展開の達成を強く感じたということになるだろうか。それはまた、これは恐らく狭くて客席と舞台との距離が非常に近いこの能楽堂の特性もあって、特に前場の、如何にも世阿弥らしい僧と潮汲みの翁の対話を通じて浮かび挙がってくる「風景」の強烈なリアリティあってのことに違いない。


開演時間は15:00で、前に狂言一番の後、休憩なしでお調べが聞こえてきて、そのまま「融」の舞台となる。客席はほぼ満席(中正面奥に若干の補助席が出ていたかも知れない)、外は今年の夏の異常な高温で、連日の「猛暑日」で空気が体温近くまで熱せられているのだが、能楽堂の中はうって変わって、行き届いた空調で、客席に長時間坐っただけだと、肌寒さを覚えるかもしれないくらい。それでも、ライトに照らされた舞台は、演者にとっては過酷な暑さに違いなく、実際に狂言が終わったあと、後見が舞台に落ちた汗を拭った程。一方では客席には毛布が配られて、配慮の行き届いた公演と感じられた。

いつもの通り、地謡は客席の大きさもあって長島さんを地頭とする若手(もう中堅と呼ぶべきかもしれないが)6人。こちれも若手による囃子方ともども空間一杯に音を響かせるが、舞台との距離もあり、(恐らくは演者にとってはそれに応じた工夫をされていると想像される)橋掛かりの短さもあって、正面後方からも橋掛かりでの謡がはっきりと聞き取れ、囃子と交差しても聴き取れなくなることはない。謡や仕舞を御自分もされるような方や研究者であれば詞章を諳んじておられるだろうが、そうではない私のような万年初心者には、その場で詞章がはっきり聴き取れるのは大変に有難く、最初に述べた前場のリアリティにも与っていたに違いない。


舞台の近さはまた、特に正先にシテが出たときの存在感、その身体に篭められた気が見所に直接伝わる迫力をもたらす。それが能の伝統的な拝見の仕方からしてどうなのかは詳らかにしないが、例えば前場の名所教えの部分では、あたかも自分がワキツレになったかのような心持で、シテやワキの見やる方向を一緒に眺めるといった感じになる。実際には、かつて六条河原院があった現実の場所に行っても(後世、河原院を模して作られたとされる捗成園があり、河原町、本塩竃町という地名が残り、河原町通の東、高瀬川沿いには河原院跡の立て札が立てられていはするけれど)、今見える景色は当然、同一のものではありえない。だが見所の私が、潮汲みの翁と諸国一見の僧とともに見る風景は、「ありえたかもしれない」「かつて」の河原院からの風景なのである。今でも見ることのできるであろう音羽山から始まって、南に転じて稲荷山、深草山、伏見、西に転じて大原、小塩の山といった地名もそうだし、能が演じられている間、それを拝見している我々がいる河原院跡の風景もまたそうであろう。

だが、では「かつて」とはそもそも何時の事なのか?作品が作られた世阿弥の時代の河原院跡なのか?それともそこを訪れた僧が、融の霊である潮汲みの翁に導かれて幻視する、その当時を基準にしても既に「かつて」のものであった、融が生きていた時代のそれなのか?いや、推敲の故事を踏まえて描き出されるその池の風景は、或は先ほど響いていたのではと思い当たる門を叩く音は、現実の出来事であるというよりは、世阿弥が編み上げた仮想の空間でのそれ、「芸術」のみが産み出すことのできる「ありえたかもしれない」風景ではないのか?

勿論、それを現実に舞台の上に現出させるのは、シテを始めとする演者の技量である。何もない舞台で、装束と面と潮汲み桶の小道具による仮装のみによって、そこに潮汲みの翁が現われ、しかもその存在感は詞章の進行に応じて微妙に濃淡を変える。それに応じて現われては消えていく幾つもの時空を異にする世界を自在に行き来することを可能にするその力は、テクノロジーに支えられた今日の仮想現実に遜色ないどころか、専ら知覚や感覚を騙す技術に依拠するそれよりも、人間の備えている想像力のポテンシャルを汲み尽すという点で勝っているとさえ言えるのではなかろうか。

だが、勿論、作品の出来、演者の技量はあれど、それらは能の作品一般に言えることだろうことは、数々の名作を香川さんの舞台で拝見してきた経験から断言できることであって、冒頭に述べた印象は、それに加えて、この「融」という作品が持っている性格によるものなのではないかと思う。


源融というのは実在の人物ではあるが、この作品の典拠になっているのは、一つには作品の舞台となった河原院の造営の故事であり、もう一つはその没後に起きた怪異に関する伝承のようだ。後者は例えば「江談抄」、あるいは「古事談」「今昔物語」に収められているが、それ自体が能のプロットにできそうな話であり、実際に、観阿弥作とも言われる古作の能は、寧ろそちらに近いらしい。荒廃した河原院を訪れた僧といえば、有名な「八重葎」の歌を詠んだ恵慶がいるが、同じく定家により選ばれた「陸奥の…」の歌が、遡及的に怪異譚を生み出すのに影響があったという見方はできないだろうか?だが世阿弥作の現行曲は、河原院造営の故事拠りつつ、後者については、既に荒廃している河原院を訪れた僧の前に融の霊が出現するという構造のみを借りているようであるけれど、前場がピークに差し掛かったところで、突然手を打って、何かに思い当たって我に還るところ、あるいは後場での名乗りには、怪異譚の翳が差しているという解釈も可能だろうが、舞台の印象は、寧ろ、今日の感覚からすれば権力者の道楽といった醒めた見方も可能な程の、或はそこに執念を感じ取ることさえできそうな、異郷の風景をこの場に再現しようとする思いの強さが勝っているようだ。膨大な人手をかけて、かなりの距離のある難波からわざわざ潮を運び、それを使って自邸で塩を焼いたという伝承は、今日的には、これまたヴァーチャル・リアリティの試みでなくてなんであろう。そして仮装現実の維持は、それが規模の大きな、徹底したものであればあるほど大きなコストを要することになる。恵慶がそうであるように、ワキの僧もまた、そうした夢の跡の廃墟を目の当たりにすることになる。

そしてその廃墟に、一時だけかつての仮想現実を甦らせるのは、今度は言葉の力、芸術の力なのだ。そしてそれは河原院という場所さえ離れて、数百年の年月の隔たりを超えて、何もない能舞台の上に、ありえたかもしれない現実の様々な相を現出させる。冷静に観れば、少なくとも前場は、僧が訪れた現実の河原院の廃墟の中で物語が進行していることになるのだが、見所が舞台上に見る風景は、それに留まらない。空間と時間が常とは異なる仕方で繋がっている、特殊な時空を経験することになる。現在の河原院辺りの風景を確認しようとすれば、今や現地を訪れなくてもGoogle Street Viewのようなツールを介して、仮想的に諸国を一見することが可能になっている。だが、舞台で繰り広げられている時空は、そうした現実の劣化したコピーではない。人間の持つ想像力の限りを尽した、「ありえたかもしれない」、だが現実にはどこにもない、「極東の架空の島」の或る場所がそこに現出しているのではなかろうか。


そんなものは幻に過ぎない、実は存在しないのだ、と言うだろうか?だが、近年の研究によれば、生々しい現実感を伴う「現実」の知覚の「感じ」は、実際には情報処理の結果、編集されて、あたかもそうであるように思いこまされているに過ぎない、ということがわかってきている。それをもって「現実」そのものを虚構、幻想と見做す消去主義的な立場もあるが、私見ではそれはクオリアは存在しないとする立場と同様、不毛なものに感じられる。それは言ってみれば、向こう側にしか存在しない判断基準がこちら側にないことを根拠に、区別自体をないものと見做す誤謬に基づくものであり、一見して先入観や臆見を批判しているようでいて、実際には、そうすることにより自分だけは特権的な立場にいると思い込む夜郎自大に過ぎない。かてて加えて、もし手前に区別すべき多様な存在の様態があるのであれば、非実在のもとにそれらを葬るのではなく、それらについての存在論を編み上げるべきなのだと思われてならない。観能の感想を超えてしまうので、ここでは目配せをするに留めるが、例えばネルソン・グッドマン的な意味での「世界の制作」として「芸術」を考えることから折り返すようなアプローチが考えられるだろう。「心」そのものではなく、「心」が作り出す「作品」(マーラー風には、それはまさに「世界」の制作に他ならない)を通して「心」と「現実」とに接近することができるのではないか。

ある哲学者は、テクノロジーの発達により将来可能になるとされる人間のサイボーグ化に関して、実は人間はもともと、言語を獲得し、文字を獲得し、アーカイブを外部に蓄積することを始めた時からサイボーグのようなものであり、その身体は生物学的な身体を超えた広がりを持っているし、その心は決して生物個体の中に閉じ込められているわけでもないという主張をしているが、もしそうであれば、それを実感するために、何も最新のテクノロジーなど必要としない筈である。そして実際に、この日に演じられた「融」の能は、まさにそのことを実感させるような強さと深さを持ったものであったと私には感じられた。そして同時に、人を欺く技術としてのヴァーチャル・リアリティーではなく(融が河原院造営で目指したのは、一見そのように見えたとしても、そういうことではなかった筈であるし、少なくとも、それをこの不朽の名作に作品化した世阿弥の意図は別にあった筈だ)、ヴァーチャリティーに向けて開かれた人間の想像力と創造力こそが解き明かすべき領域なのではないか、というようなことを演能の記憶を反芻しつつ思わずにはいられない。少なくとも演能が開示した世界の豊かさと広がりは、私のような人間には到底汲み尽くし得ないような程のものなのだ。同じ作品の同じシテの演能も、時を隔て、場所を違えれば、都度新しく、より深く、広がりあるものとなることにも素直に圧倒されざるを得ない。だがそもそも、実は私の能力のせいで、これだけの豊かさを一度で汲みつくすことはできないのではないかという気もする。それほどまでに細部の隅々にわたるまで気の行き届いた世界は、卑小な自分が住まっていると思い為している現実で完結しているわけでは決してなく、「私」を超えて無限に広がっていて、それは原理的に「私」には汲み尽せないのだ。些か抽象的な言い方になるが、この日の観能が私に語ることを要約すれば、行き着くのはそうした認識のように思われる。

(2018年8月25日公開, 2024.6.24 noteにて公開)

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