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第35回二代目竹本朝重リサイタル(2002年11月1日)

「近頃河原の達引」堀川猿回し (第35回二代目竹本朝重リサイタル)朝重・友路

11/1、銀座のガスホールに第35回二代目竹本朝重リサイタルを聴きに出かけた。
お目当ては、朝重さん・友路さんの「堀川猿回し」。
朝重さん・友路さんはラジオの素浄瑠璃で、その圧倒的な名演を聴いていて、必ず 実演を、と思っており、ようやく念願かなったわけである。期待に違わぬどころか、 遥かに上回る感銘に、次の機会もこれは聴き逃せないと強く思った。

リサイタルの前半は小泉八雲の「耳無し芳一」の朗読。「耳無し芳一」の話は 子供の頃に読んだきり、勿論あらすじは知っているのだが、どんな話であったか 曖昧になっていた。
そのせいか、聴いて感じたのは、朝重さんの語りそのものとは関係のないこと、 この話は怪異談の終わるところから始まる、というような印象だった。 つまり、芳一の悲劇は、実は「外部の視点」和尚の意識が物語に介入することによって 引き起こされているような感じを受けたのだ。
諸国一見の僧が因縁のある場所で幽霊に遭うのはよくあることで、そこでは普通に 対話が行われもするし、場の秩序というものもあって、幽霊が自分の思いを陳べる場では、 決して僧はその秩序を乱すことはない。幽霊は、あるいは「阿漕」や 「求塚」のように成仏できずに去っていくかもしれないし、多くの修羅物のように 一旦は襲いかかろうとするものの、僧の祈りに感謝して弔いを頼んで去っていくかも しれない。そして前半の芳一は、そうした秩序のうちにあるように思える。
能では普通のそうした邂逅は、夜明けに幽霊が去っていくと同時に終わるので怪談には ならない。それが怪談となるためには、夜が明けてのち、「気が付いてみたら 実は」という外部の意識の介入が必要で、そこで慄然と恐怖しなくては怪談たりえない のだ。(能のワキの僧はそれが幽霊であることをたいていアイ語りで確認する。 決して朝の光の中で気が付くのではない。でもそこには恐怖はない。恐怖するのは 「別の」意識なのだ。僧は夜が明けたのちもこれまでと同様に諸国を廻るだろう。)
盲目の芳一には能の諸国一見の僧と同じように、そうした外部はなかった。だから 和尚の「種明かし」に対して一旦は抗いさえするのだ。

それまでは平穏であった朝の光を、悲劇の暴露へと変質させたのは和尚の意識なの ではないか?和尚が「耳」に般若心経を書くのを忘れたのは、実は盲目の芳一に とっての唯一の外部に開かれた経路である聴覚を幽霊に引き渡して、芳一を自分の側に、 それを恐怖として意識する側に連れ戻すための無意識の方略ではないかとすら思える。 和尚には勿論幽霊の呼びかけは聞えない。芳一もまた、そうなるべきだ、というわけだ。 そのためには耳は不要、むしろ障害ですらあると。もっと直裁に言えば、芳一から耳を 奪ったのはこの話を怪談として感受する「目」、和尚の意識じたいなのではないだろうか?
一体耳無しになった芳一はその後どうなったのだろう?同じように琵琶を弾いただろうか? 恐らくそんなことはないのではなかろうか?けれども証拠を隠滅するかのように テキストは単にその場を離れたということを告げるだけで、芳一のその後は語られない。 そして勿論、幽霊は成仏することはないのだ。(もう一歩進めてしまえば、理性的な視覚が 聴覚を優越して、その代償に恐怖が残る、と図式化してしまえるのかも知れないが、 それはここでの感想とは別の話になる。)

私は小泉八雲の原作を知らないので、それが原作に由来するものなのかはわからない。 語られたテキストは、(朝重さんの語りとは別に)悲劇の暴露の光のように、 説明的で、整序されて陰影を欠いた印象を受けた。けれども、この話を怪談にしている のは、そうした(はじめから)閉ざされた耳の、明るい意識の怯えそのものであることを 思えば、それはある意味当然なのかも知れない。
能にも怨霊退散の物語はあるが、そうした話とこのテキストはどんなに遠ざかっている ことか。それを強く感じた。それが小泉八雲という「外部」の意識が構成したもの なのかどうかはよくわからないのだが。

そういうわけで、私にとって、この話は和尚が芳一に向かって種明かしをする場面で 終わってしまっていた。朝重さんの語りで最も印象的であったのは、それ以前の、 幽霊と芳一が語り合う場面であった。

「演出」(?)でよくわからなかったのは、最後、一番最後になって、背後の黒幕の 一部が取り去られて銀色の壁が現れたこと。このタイミングで、何故なのか? 何かを意図していたのだと思うが、私には全く理解できず、不明を恥じるほかない。 単なる効果としてもタイミングの必然性がわからないのだ。あのタイミングで 何かが変わるのだろうか?

後半は「堀川猿回し」。こちらは多くを語る気にならない。言葉が見つからないほどの 素晴らしい演奏だったので。
友路さんの三味線は、ちょっと聴くと素っ気無く思えるほど軽々と語りを区切っていく。 それでいて、その音は平板ではなく、それどころか、要所要所の音色の多彩さは驚異的で こんなにパレットの広い三味線は私にとっては魔法のようだ。「猿回し」は、西洋音楽の ロンド形式のようで、今度は三味線を語りが区切っていく。三味線のテンポは独特で スピード感がありながら、非常にゆったりとした揺るぎない感じがする。一つ一つの 音が個性を持っていて、その粒の質が響きあうことで生成する時間は自在さと豊かさを 獲得する。こんなに生き生きとした時間が紡ぎ出されていく現場に立ち会えたのは 本当に幸運だと思う。私にとっては友路さんは生きた時間を生み出す魔法のおばあさんで、 その魔法を目の当たりにしてあっけにとられるほかはなかった。

それに伍する朝重さんの語りも、その語り分けのうまさ、何よりも全体の構成の巧みさが 圧倒的で、全く飽きることがない。特に伝兵衛が着いてからは、息つく暇も無い見事さで 最後まで一気に聴けた。一方でディティールの描写は明晰で、登場人物の動きが見えるのだ。 有名な「そりゃきこえませぬ」も得心がいった。
ラジオで聴いた時の印象を重ねうちするような感じだが、お二人の演奏は緩急自在で 全体の構成の見通しの良さと、細部の豊かさを兼ね備えていて、私のような初心者でも その凄さがじわじわと感じられる。実はちょっと風邪気味だったのだが、聴いていたら 風邪がどこかにいってしまったようだ。
一期一会の貴重さというのはあるけれど、これだけの至芸が残らないのはあんまりだと 思う。録音がCDなりDVDなりのかたちで残されることを願わずにはいられない。

(2002.11 執筆・公開, 2024.9.27 noteにて公開)

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