バルビローリのシベリウス:第7交響曲 ハレ管弦楽団(1966)
シベリウスの音楽の極限。シベリウスの音楽は語法が伝統的であるのに比べて、 音に対する態度は、間違いなくいわゆるクラシック音楽の極北にあると感じられる。 例えばウェーベルンにも似たところがあるが、シベリウスはウェーベルンが引き返した (のでなければ、そこを極限と見なして立ち止まった)地点を(恐らく気づかずに)超えて 先に進み、そして全く別の理由で沈黙してしまったようだ。それはある意味では、周縁的な 音楽の特権といっても良いのかもしれない。(例えば、武満の音楽にそれを感じる時がある。 もっとも武満の方向性は全く異なる。沈黙するのではなく、むしろ特定の誰かに対して歌いかける ことを選びとったように思える。)
バルビローリの演奏には作為がない。何かの秩序に音を整序しようとする意図が感じられない。 しかし、こうした印象は、自分で言うのもおかしいが自己撞着的ですらある。 何故ならば、旋律のうたわせ方にはクセがあるし、ある種の「見得」すらあると言っても良いほど で、なにより寧ろバルビローリの音楽は暖かみのあるものだから。その暖かみは、ある種の身体性 と言い換えてもよい。ただし、それは運動感覚ではなくて、もっと受動的なもの、身体の内側で 生じる反応の感覚に近いように思える。たとえて言えば、広がる風景は 確かに無人なのだが、その中でその風景に対する主体が透明になった挙げ句どこかに行ってしまう ということは、バルビローリの場合にはないのだ。しかし、にも関わらず、音を支配しようとする 主観をそこに感じることもまた、ないのだ。
もしかしたら、この両者が両立するところにバルビローリの音楽の秘密があるのかも知れない。 例えばエルガーを聴く時には同じ境位へと逆に辿っている感じがする。エルガーの場合、 風景のうちにふと立ち降りる瞬間が存在する。少し外へとはみ出すのだ。
バルビローリのシベリウスの風景には人はいない。けれども見つめる眼差しを聴き手である 私は感じ取ることができる。そして、風景は感受されるものであって、眼差しとともにしか ない、ということに気づくことになる。だから、バルビローリの演奏では、主観は決して 透明になって風景の彼方に消えていってしまうこともない。最後までそこにいて風景の 移ろいを感受しつくすのだ。
美しいと感じて風景の中に心を浸す主観の存在するのがバルビローリのシベリウスなのだ。
勿論、自己撞着などない。自分の心の動きに拘泥すること、心を表現することを止めて、 外の音に聴き入り、風景を眺める主観の心の動きがそこにあるというだけだ。
(2005 公開, 2024.8.18 noteにて公開)
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