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ロベルト・シューマン

ロラン・バルトはシューマンの音楽は「たとえ下手でも自分で演奏してみる人にしか、その音楽を完全には聞かせない」と述べ、直ちにその理由について「シューマンの音楽が耳よりももっとずっと奥に達するからなのだ。それは、リズムを打つことによって、身体の中へ、筋肉の中へ達する。そして、メロスの官能によって、内臓のような所にまで達する。まるで、弾くたびに、その作品は一人の人のためにだけ、それを演奏する人のためにだけ書かれたかのようだ。真にシューマン的なピアニスト、それは私だ。」と述べている。誰か他の人間の身体を通じて実現される音は私の身体のリズムとの同調を保証されたものではない。

ピアノ・リサイタルでの独奏であれ、コンサートでの協奏曲の独奏であれ、ピアノ独奏を「視る」とき、そこで表現しているのは、ピアノ奏者であって作曲家ではない。指揮を「視る」とき、解釈している指揮者が現前していて、解釈が提示されているのであって、作曲者が現前しているのではない。あたかもシューマン自身が語っているかのように、あたかもシューマンの声を聴くかのように、あたかもそこにシューマン(の幽霊)と対話するかのように音楽を聴こうとするとき、人は、自ら奏者になるか、あるいは演奏という媒介を括弧入れする操作をしなくてはならない。前者の場合には、楽譜が作曲者の代補となり、後者の場合には録音技術による演奏を記録した物理的媒体、即ちレコードやCDといったもの、本来は演奏の代補であるはずのものが、或る種のショートカットによってあたかも作曲者の代補であるかのような思いなしが可能となる。

コンチェルトは少なくともソロ奏者である演奏者の身体性を浮かび上がらせる。コンチェルトをCD等で聴くのは、交響曲のそれとも、ピアノ独奏のそれとも異なる。コンチェルトはいわば「劇場性」を備えた、コンサートホールでのコンサートという制度と強い結びつきを持つ。従ってコンサートホールを維持し、コンサートに客を呼ぼうと思えば、コンチェルトはプログラムの中に欠かせないものとなる。それは(グールドが拒絶したように)まさに「見世物」、ショー的な側面を備えていて、それは常に、身ぶりは勿論、衣装などの要素もひっくるめて、スペクタクルの上演なのだ。つまりコンチェルトのコンサートホールでの「上演」には、視覚的要素も欠かせず、従って、録音による記録と録画による記録の差というのもコンチェルトの場合には独特の差異を産み出すことになるだろう。

だが、シューマンの協奏曲はピアノ協奏曲にせよ、チェロ協奏曲にせよ、ヴァイオリン協奏曲にせよ、やはりどちらかと言えば単独の主体の、誰に宛てたものというわけでもない独白に似ている。オーケストラは色彩と陰影を与えるためにソリストに寄り添うのであって、ソリストに対抗し、拮抗するために存在するわけではない。一方のソリストも技巧の誇示、見世物としての音の饗宴ではなく、作曲者の内面を代弁するべく、自己の内側へと沈潜していく。そうした傾向を備えたシューマンの作品はある意味ではスペクタクルに纏わる集合性から自由ではないコンサートホールよりも、自宅でCDやレコードといった記録媒体を介して一人で聴くのに相応しいのかも知れない。録音された音響とてそれを演奏した奏者の身体性の痕跡を留めており、完全に透明になることはないのだが、繰り返し聴くうちに、いつしか奏者の身体と聴き手のそれとの間に同調が起きることが起きないとも限らない。

それはほぼ19世紀前半に生きたシューマンにとっては想像もつかないような聴取の仕方であろうが、降霊術に凝ったらしいシューマンがもし録音を再生する装置を知ったならば、まさにそれを「霊」を呼び起こすための「媒体=霊媒」(メディア)と見做したに違いない。レコードから聴こえてくる音は、シューマンが望んだように、今、こことは時間的・空間的に隔たった異郷から響いてくるのだ。しかもそれは実際にはどこにもない仮想的な時空間に過ぎない。それは想像の裡にしかないという点で、シューマンが楽譜にしばしば書き付けた「遠く」ではなかろうか。そこで演奏しているのは、シューマンの最後の作品においてそうであるとシューマンが認識したように、「霊」(Geist)に他ならないのではないか。

シューマンはしばしばロマン主義的な天才の典型と見做される。古典期以前には作曲家は
雇い主の注文に応じて、決められた機会に演奏される作品を大量に生産する音楽職人であった。シューマンは幼少時より専門教育を受けたわけではなく、特に初期においてそれが自由で独創的な作品創作に寄与した一方で、その技巧の拙さを指摘されることもしばしばである。ピアニストとしても大成せず、作曲家兼演奏家ではなかった彼は、音楽の持つ技術的な側面での合理性に対して比較的無頓着でいることができ、その結果として彼のピアノ曲は、必ずしも最大の演奏効果を上げられるように書かれているわけではなく、また指の生理に忠実というわけでもないという点で、その書法はピアニスティックとは言いがたいとされる。必ずしも評価の一致しない管弦楽作品におけるオーケストレーションについては問題視されることすらあり、現場における実践において非常にしばしばオーケストレーションの改変が為されてきた。シューマンの時代にはオーケストラの楽器はまだ今日のものと全く同じわけではなく、近代的な楽器に変化する過渡期にあったことを思えば、楽器の性能や性質の変化に応じた部分もあるとはいえ、シューマンの響きの理念というのが、コンサートホールで効果的に鮮明に響くこととは異なった方向性にあったことが主な原因なのだが、いわゆる(指揮者も含めた)演奏者の生理に反する側面があることは現場の事情よりも霊感に忠実なロマン主義的な芸術家像に如何にも相応しい。

シューマンには熱烈な愛好家が多いのは、聴き手の身体に直接響いてくるその音楽の近さとともに、彼の作品が技術的に異論の余地のなく完璧とは必ずしも言えず、絶えず批判にさらされる、ポレミカルな位置づけに留まっているからではないか。彼はどことなく弁護を必要としているように見えるのだ。常に作品として実現したものが、譜面に書き留められ、演奏によってリアライズされた現実の音響が、本来あるべき姿には達していないかのような印象をもたらす。だが恐らくそれは、現場の知恵で状況に応じて解決するような類のものではないのだ。そしてここにロマン派的な感情表現の音楽の極限であるはずのシューマンの「音楽」のパラドクスがある。演奏されない音符を楽譜に書き込んだシューマンは、実現される音響の裡に十全な自己表現がなされるとは感じていなかったのではないか。彼の音楽はいわゆる演奏効果の追及とは無縁だが、それだけではなくて、演奏する身体から微妙にずれ続ける。一般には感情の表現と思われているものは、実際にはもっと身体的な事象、十分に分節され、記号として意味づけや解釈が可能になる以前の反応の痕跡ではないのか。霊感に忠実であろうとすると、生理的な自然さや感覚的な快さとは一見したところ背馳することになり、音楽は寧ろ痛みや不安を、場合によっては無感情や無表情を志向することにすらなるのだとしたら、作品の完成度や出来の良さといった尺度は最早絶対的な基準ではありえないことになる。

更にシューマンにおいて顕著なのは、その生涯の出来事と作品との間に密接な関係を見出そうとする立場だ。その創作は天才的な芸術家の自画像であるというわけだ。シューマンの音楽を語るとき、個別の作品を生み出す背景となった出来事に言及せずにいることには非常な困難を伴う。実際、シューマンの生涯の出来事については、最早神話と言っても良いような、人口に膾炙したエピソードに事欠かない。恐らくこうした点でシューマンに匹敵するのは、マーラーくらいなものではなかろうか。

人との関わりということで行けば、生涯の出来事もそうだが、シューマン自身の病歴や気質、折々の精神状態が作品を語るときに持ち出されることも少なくない。シューマンにはありきたりの伝記ではない、いわゆる病跡学的なモノグラフが多いのは、シューマンにあっては「狂気」が、なかんずく、その創作との関係において問題となるからなのだろう。ある人は創作時期を問わず、シューマンの音楽のそこかしこに狂気の徴候を読み取り、またある人は創作時期の精神的な状態との対応づけから特定の作品の中にまさに病跡を読み取ろうとする。そしてしばしば行われるのが、一つには、ある時期にあるジャンルの作品を集中して創作するという創作の仕方にシューマンの控えめに言っても気質的な側面の反映を読み取ろうとすることであり、更に一般的なのは、シューマンの創作時期の終り頃の作品を霊感に乏しいものとし、それを病気の進行による創作力の枯渇のせいにするといった発想である。最も極端なものには、シューマンの狂気の原因をシューマンの音楽を含むロマン主義的な音楽の在り方に帰着させようとするような見解すらある。

だがしかし、それらは今、ここで、1世紀半以上の隔たりを超えてシューマンの音楽を聴くためのよすがにはなりえない。シューマンの音楽は最早徹底的に過去の遺物ではないのか。そこにもう戻ることのできない或る種の精神の様態の痕跡を読み取って人は郷愁に捉われるのではないのか。恐らく半分はそうなのだろう。もうこのような音楽は不可能だという認識に付き纏われつつ、だがその一方で、そうした認識の由来を突き止めることができない。それでもなお、そこには忘却してはならない何かがあることを感じ取り、それを世代を超えて記録し、記憶を継承していかなくてはならないという気持ちに捉われる。それは今、ここでは既に不可能であるが故に、記憶され続けなくてはならないし、それを繰り返し演奏し、聴き続けなくてはならないのだ。

その一方で、シューマンの音楽に聴き入るとき、人はそれが時空間を隔てた過去の異なる文化の中で生み出されたものであるという事実など忘れてしまう。それが狂気を孕んでいるかどうかを判断すること自体、どうでも良いほどにその音楽は近くに響く。と同時にその音楽が遠くから到来した何か他のものに対する応答の断片であるかのような印象から逃れられない。自分の身体の内側の事象のように響くそれは痛みに近い感覚をもたらし、自分の裡にある「欠如」を浮かび上がらせる。人はその「欠如」がもともとあったものなのか、その音楽が自分の中に穿ったものなのかを最早知る術がない。そしてまたその「欠如」の埋め方を知る術もない。否、寧ろそれが決して埋まることのないものであることを既に予感してしまっている。

(2013.4.28, 2024.6.24 noteにて公開)

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