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バルビローリのシベリウス:第4交響曲 ハレ管弦楽団(1969)

この曲はシベリウスの交響曲の中では捉えがたい、それゆえ様々な解釈を許す曲だと思える。
この曲のバルビローリの演奏を聴いたのは、カラヤンやベルクルンドより後で、最初はやや戸惑いを 覚えたのを憶えている。
この曲は、非常に主観的な内面の音楽としても演奏できるし (ベルクルンド)、その逆も可能だ。例えばケーゲルの演奏では、風景が主観の結んだ像に過ぎないこと、 その向こうには虚無しかないことを思い知らされるのだが、バルビローリの演奏はそのどちらでもない。
もっともそれは当然といえば当然で、他の曲と基本的な解釈が同じだということだ。
バルビローリの第4交響曲に関する捉えがたさ、それは、恐らく主観性の残滓がそこに在るためなのだ。 結局、風景というのは主観にとっての風景なのだ、ということ、そしてバルビローリの演奏はその レベルにとどまっていることが原因なのではないか。もっともこれはバルビローリの限界だとは私には 感じられない。むしろかけがえのない美質だと思われる。(当然、これがバルビローリの凡庸さだと 感じる人もいるだろう。また、バルビローリのシベリウス演奏は結局バルビローリであって シベリウスではない、という人が居てもおかしくはないと思う。)
この曲でも、この曲においてすら、刻々と変化する風景に対する主観の反応が直截に語られる。 この曲においてすら、主観と風景の関係は破綻を来すことはない。このことは、例えばバルビローリの マーラー演奏につながっていくように思われる。また、バルビローリの(特にマーラー演奏について) 言われるところのセンチメンタリスムも、つまるところこの関係の揺るぎ無さの現われだと考えられる。
けれども、この曲の第4楽章がこれほどの暖かみで演奏されるのを聴いて感動せずにいられるだろうか?
病の回復の兆し?春の兆しへの反応?これから癒されようとしている心のひそやかな動き、、、

(2005 公開, 2024.8.22 noteにて公開)

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