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武満徹

1990.11.6 東京文化会館

新日本フィルハーモニー交響楽団第184回定期演奏会<武満徹 還暦記念作品集>
指揮:小澤征爾

弦楽のためのレクイエム
ノヴェンバー・ステップス、琵琶:鶴田錦史、尺八:横山勝也
リヴァラン、ピアノ:ピーター・ゼルキン
ア・ストリング・アラウンド・オータム(日本初演)、ヴィオラ:今井信子


武満徹を最初に聴いたのが何だったのか、はっきりした記憶はない。けれども最初に強く惹き付けられ、そして今でも自分にとっての「代表曲」が何であるかははっきりしている。1977年作曲の「ウォーター・ウェイズ」だ。「カトレーン第2番」、「ウェイヴズ」と一緒に「ウォーター・ウェイズ」が入った、タッシの演奏によるレコードを買ったのだった。記憶は朧気ながら、その当時良く聴いていたNHKFMの「現代の音楽」で、近藤譲さんの解説で放送されたのを聴いたのがきっかけだったかも知れない。近藤譲さんが題名の「ウォーター・ウェイズ」を「水路(すいろ)」と呼び変えていたのが奇妙に印象に残っていて、そのこととLPの購入とのリンクは喪われているのだが。(これは後で気が付いたのだが)中西夏之さんの絵がジャケットとなったこのLPは爾来、我ながらめずらしいことに、いわゆる「宝物」と呼んでよいものになった。

武満が私にとって優れて同時代の音楽であるといいうるのに、上記の還暦記念コンサートを聴く機会があったことを含められるだろうと思う。出不精で、しかも同時代音楽への興味がないではなくても、特に積極的に渉猟しようという意欲もない私にとっては、これは珍しい経験だった。しかも、このコンサートは自ら積極的にチケットを購入して出向いたのではない。その頃親しかった友人が、体調を崩して聴きにいけなくなったといって、チケットを譲ってくれたのだった。私に比べれば遥かに趣味の洗練されたその友人の慧眼の恩恵を蒙って、その価値に遅ればせながら気付いたときには、すでにその友人とは疎遠になって、お礼を改めて伝えようと思っても連絡を取る方法もないのだが。

出演した演奏者の豪華な顔ぶれから想像されるように、これは大変に質の高い演奏会だった。一つ印象に残っているのは、琵琶の鶴田錦史さんが既にかなりお歳をめされていて、車椅子で登場されたこと、その琵琶の音は、往年の演奏の録音に聴かれるような、横山さんの尺八を圧倒するような気迫よりも、寧ろ内側へと引きこもるような気配が濃厚で、かつては「対決」といった様相のあの「ノヴェンバー・ステップス」の第十段も、二つの楽器の音の間に不思議な空気の断層があるような不思議な空間が出現したことだった。私はこの名作の情熱的な愛好者とは言い難く、この実演を除けばわずかに数種の録音を聴いたのみだが、この実演は他の演奏とは明らかに質の異なるものだったと思う。

もう一つだけこの演奏会の印象を書けば、出発点の「レクイエム」とその時点での到達点ともいえる「ア・ストリング・アラウンド・オータム」の日本初演との間の隔たりに、特に後者の明らかに調性的な響きに、年月の堆積を否応なく感じたことがあげられるだろうか。武満の熱心な聴き手の多くの方が特に後期作品に対して厳しい評価をもたれているのを知らないではないが、私はその後期の作品も決して嫌いではない。その作品が到達した境地のようなものは全く独自だと思うし、「うますぎる」としばしば揶揄混じりに評されるオーケストレーション、あの一見甘美な「タケミツ・トーン」の向こう側に、年月の堆積を経て変容はしているけれども、本質的には変ることのないあの視線を感ぜずにはいられない。

すべてのプログラムが終わった後、舞台に作曲者が呼び出され、写真ではお馴染みのその人を、東京文化会館の3階席から眺めることになった。実際にそのコンサートは還暦を迎えた作曲家の作品がジャンルを問わず次々と演奏されるある種のお祭りの一環だったし、そうした場で、距離をおいた冷静さを装うこと、逆にその場の雰囲気をまずは同調的に受容すること、それぞれの当否を云々する向きもあるのであろうが、そうした場に聴衆として参加したことは、まずは「同時代性」という点では間違いなくそういいうる経験だった。


ある時、ふと気づいたのだが、私にとっての武満は、まず「流水」の作曲家である。それは私が育った環境にも関係があって、それは地方都市の郊外の田園地帯だったのだが、今思うと大変に水が豊かで、家の周りには常に水量の豊富な大小の水路が夥しく走り、実は、常に基調の響きとして、流水の音を聴き、その気配の中で暮らしていたのである。それを思えば、例えば「ウォーター・ウェイズ」に、あるいはまた「リヴァラン」に、ほぼ生理的といってよい親近感、その音楽を聴くことで寛げるような感じを受けるのはある意味では自然なことなのかも知れない。

また例えば「トゥリー・ライン」のような音の空間に聴き取りうる風景は明らかに既視感を帯びたものだし、武満の音楽に繰り返し現れる「雨の庭」は、ドビュッシーのそれとは異なって、すぐそこにある馴染みのものだと言い切ることができる。勿論、「風景」というのはある認識の様式を前提とするのであって、地理的に同一の場に居ることが、「風景」の共有を単純に保証するようなものではないが、これについては逆に、慣れ親しんだ音楽を通して「風景」の眺め方を聴き手が習得するという往還が存在することも無視できないだろう。音楽を聴くことは、単なる楽しみではなく、それは感受の、ひいては認識の様式を学ぶことでもあるのだ。従って「同時代性」というのが時間の次元についてだけに限定されているとしたら、明らかにそれ以上に、時空間の全体としての延長的な場の共有という点で、更にはそうした共有された場に対するある種の認識の様式をその音楽によって学んだといえるという点で、武満の音楽の「近さ」は特別なものと言いうるように思える。

武満が、小澤征爾との対談で、自分は日本の風景の中でしか音楽が書けないのだと言っていたのは、私なりに良くわかる気がする。確かにそれはまぎれもなく、自分の見慣れた、住み慣れた風景の音楽だし、とみに最近、能や義太夫などの実演に多く接するようになって、武満の音楽と、これまで慣れ親しんできた「西欧の」音楽との違いが一層はっきりと感じられるようになっている。そうはいっても、それは別に武満の邦楽への歩み寄り故ではない。武満の邦楽への接し方は、例えば第一線の武満研究者による解説書の中でさえ、「心中天網島」を八百屋お七の話と勘違いするような、私の様な初心者でもすぐに気がつく間違いが放置されたまま活字となって流通してしまうような受容サイドの関心の薄さとは比較にならないくらい徹底したものだったようだし、その作品は邦楽の伝統とは距離をおいたところで楽器そのものの性質を生かしたものであるように思えるが、それでも時折、場違いな感じがしたり、距離をおこうとする身振りが鼻につくような気がすることもある。そうしたこともあって実際には私は武満が邦楽器のために書いた作品はほとんど聴かないし(結局、日本人の書いた「西洋音楽」なのだ)、私が好んで聴く演奏は、既述のタッシやロンドン・シンフォニエッタのような海外の団体が演奏したものだが、そうしたことをひっくるめて、武満の音楽が自分にとっては格別に「日本の」、そして「同時代の」ものであることを感ぜずにはいられない。

武満の音楽が持つ、或る種の認識の様式は、ヴェーベルンが晩年に彼なりの自覚をもって到達した場所(ただし、その自覚ゆえに、その場所で彼が感じたものは、著しく窮屈で四角張った仕方でしか音楽的には実現されなかったように思われる)、シベリウスが周縁的な地域の特権を生かして、それが西欧の音楽の極限であることに多分はっきりとは気づかずに到達し、そしてそこで(必ずしも意図的にではなく、本人にとっても恐らくは不幸なことに、結果的に)沈黙することを選んだ世界との関わりの様態と似ていながら、それらが到達点故の或る種の峻厳さと貧しさを備えていたのに対して、武満のそれは、あまりに「自然」で、無意識の(従って演技ではない)謙虚さと、更に一層謙虚であろうとする意識の動きと丁度対になるように、最初は厳しく、自覚的な貧しさを懼れないプロテストであったものが、その後ますます空間と時間の広がりを獲得していったように思われる。主観性は限りなく後退し、音の自然の法則・秩序に従うこと、音の流れを聴き、その有機的な組織を定着させること。かの地では最晩年のヘルダーリンの断片や、逼塞したヴェーベルンの音楽のうちでしか可能でない世界と主観とのありようが、ここではまるでそうするのが水の流れのように一番自然なことなのだ。

だが私はときおりその自然さに苛立つことがある。アレグロを書くことなくレントを書き続けることができ、なおかつその上に作品に匿名性を望むことができる謙虚な精神の強靭さを前にして、息切れを感じ、自分の卑小さにうんざりするからだ。「近さ」ゆえの、「自然さ」ゆえのかすかな苛立ち。それが不当なものであるとわかっていても、武満の音楽の持つ境地はある意味では限りなく遠く、その遠さが音楽を素直に享受することを時折妨げる。勿論それは武満の音楽の問題ではない。私はそれに反発し、それを批判することはできない。寧ろそれは、正しいのだけれど私にはまだできない、もしかしたら最後までできない世界との関わり方へのいざないなのだ。武満の音楽はその結果を音響として享受する分には大変に美しい。世界の認識の仕方は音をどのように秩序立てるかに反映する。丁度武満の音楽を聴くひとときだけ、あるいはそれと同じくらいの儚い経過のうちには、時折、私もまた世界をそのように受け止めることもできるだろう。だが、それは結局、一瞬の息抜きでしかない。武満の音楽を聴くことは、一見、見慣れた風景を自然な仕方で眺めることと似ているようで、それに尽きるわけではない。その認識の、世界との関わり方の様式は自然で、無理が無く、魅力的なものに見えるが、その音楽を聴いて一瞬その気にさせられることと、それを己のものとするのは、また別の問題なのだ。

(2005.4.16,2006.4.22加筆, 2024.5.15過去の記事を復元・若干の手直しをした上で再公開, 2024.6.28 noteにて公開)

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