見出し画像

アルベリク・マニャール

 録音・再生技術の発達とネットワークを介した流通の恩恵の一つに、通常、コンサート等で良く取り上げられる有名な作曲家の有名な作品以外に接する機会が増えたことがあるだろう。それは勿論、同時代の作品についても言えることだが、過去の、いわゆる忘れられた作曲家の再発見の機会が飛躍的に拡大したのは間違いあるまい。かつて永らく、そうした作品は楽譜を介して接する他なかったし、レコードやCDが普及しても、流通経路が限定されていた時代には、録音は着実に蓄積され、レパートリーは着実に増大していたであろうが、それに接する機会は遥かに限定されたものであった。今日では、かつては名前すら知らなかった作曲家、名のみ知られてもその作品に接することができなかった作曲家、コンサートのレパートリーに辛うじて残った極一部の作品しか知ることのできなかった作曲家の作品、或いは音楽史の年表に載るような有名な一部の作曲家の場合でも、膨大な作品のうちコンサートで取り上げられる頻度の低かった作品を知ることができるようになっていて、その恩恵は計り知れないものがあると感じられる。

 音楽史の年表に載るか否か、コンサートのレパートリーとして残るか否かが如何にして決まるかには様々な要因があって、勿論概ね、そうした社会的・集団的なレベルでの文化的淘汰の結果というのはそれなりの理由づけが可能な場合が多いだろうが、文化的生態系のニッチを占めて淘汰を逃れて生き延びることができるかどうかについていえば、少なくともモデルとなった生物学的な進化においてそうである程度には偶然が介在するものであろう。ある時期のちょっとした環境的条件、出来事の生じる順序のわずかなずれが、「バタフライ効果」と呼ばれるカオス力学系固有の挙動を引き起こす。音楽の場合には第一義的には演奏されることが伝承の条件だが、こと西洋音楽においては高度な記譜法のシステムが確立されたから、楽譜を媒介とした伝承というのが可能であるが(それがなければ演奏による継承が一旦喪われてしまった作品、或いはそもそもが演奏の機会がない作品が、時を経て(再)発見され、リバイバルすること自体が不可能である)、かつては来たるべき演奏の機会を待っている、いわば潜勢態のレベルにあったものが、近年の「忘れられた作曲家」「知られざる作曲家」の作品のCDを媒体とした、或いはネットワークを介した流通によって、作品が歴史に刻まれるためには一度演奏されるだけではなく演奏が反復される必要があるという条件もひっくるめて(CDにコピーされてであれ、直接各種のファイルフォーマットの形で交換されるのであれ、それらは反復して聴かれる可能性を潜在的に備えていて、もし誰かがそれを再生したならば、それは常に既に二回目であって、反復が成立したと見做しうる形式的な条件は満たしていることになるので)乗り越えることが可能となったかにさえ見える。

 アルベリク・マニャールはヴァンサン・ダンディに師事し、ギイ・ロパルツと親しく、スコラ・カントゥルムで教鞭をとるなど、人的交流の面からフランキストの一員として分類されることが多いようだが、フランキストは(セザール・フランク自身も含めても良いように思うが)第二次世界大戦前、或いは戦後しばらくまでの時期と比べると、その後すっかり凋落してしまった感があって、これは単なる感覚的なものだが、私の子供の頃にはそれでもなお一定の位置を占めていたものが、この30~40年の裡に忘却の淵に追いやられつつあるような印象さえ覚える程である。そしてそうしたフランキストの中でもダンディやショーソン、デュパルク、ヴィエルヌといった第一世代はそれでも辛うじて名前を知っていたのに対し、マニャールは永らく私にとっては未知の存在であった。同時代的には前衛の側、今日から見れば主流となったドビュッシーやラヴェルの周辺の作曲家達、或いはメシアンへの繋がるカテドラル・オルガニスト=作曲家の系譜の作曲家達(こちらにはフランク自身も含めて、フランキストの一部も含まれることなるが)に比べてもなお、同時代的に既に守旧派的に分類されてしまえば、その後の忘却の度合いが著しいのも仕方ないのかも知れない。例えばヴィエルヌの作品の全貌が広く知られるようになったのは極く近年のことだと思うが、彼のオルガン曲やミサ曲は、上記のような凋落とは無関係に、確固たる地位を占め続けて来たように見えるのに対し、そうした場を持たないマニャールの音楽は、コンサートホールやオペラハウスで取り上げられない以上、実質的には忘れ去られていたと言うべきなのだろう。

 だがマニャールの場合には、彼自身の気質やその気質が反映された作品の性格が、その忘却に与かった面も否定できないだろう。私がマニャールの名前を知ったのは、恐らくはジャンケレヴィッチの著作を通してであったのだが、いわば通りすがりに言及されたに過ぎない『音楽と筆舌に尽くせないもの』での参照(邦訳ではp.121とそれへのp.130の注釈)は措いて、実質的な言及のある『仕事と日々・夢想と夜々』におけるジャンケレヴィッチによる以下のような性格付けは、それが妥当であるとしたらそのことによってまさに忘却の理由の一端を説明しているという見方が可能だろう。

(…)フランスでは、峻厳な音楽家たちもほかの人びとと共に甘美の大祭典を祝い、いまだに音響の歓喜が歌うにまかせ、いまだに音色、ハーモニーそしてひそかな充全の幸福に身を委ねる。デオダ・ド・セヴラックと同じようにルーセルも、ルイ・オーベールやポール・ル・フレムと同じようにマニャールも…。私の愛する音楽は誇示癖がない。ここにすべてが仮面とヴェールで覆われている一頁がある。すべてが半濃淡で薄明りだ。これがフランス流の《熱情をこめて》だ。(…)

ジャンケレヴィッチ『仕事と日々・夢想と夜々 哲学的対話』(仲沢紀雄訳、みすず書房、1982)、pp.298-99

この文章でマニャールと同格の位置に置かれているのはルーセルだが、同じダンディの弟子ではあっても、ルーセルは今日、マニャールとの比較においては遥かに著名な作曲家だろうし(寧ろフランキストの流れに属している事実の方が忘れられがちなくらいであろう)、その作品は今日のコンサート・レパートリーの中に確固とした地位を占めているのは誰の目にも明らかなことだろう(例えばアマチュア・オーケストラの情報サイトであるi-amabileの演奏会履歴を見れば、それは一目瞭然であろう)。オーベールやル・フレムが引き合いに出されている理由は措くとして(ちなみにマニャールに師事しているのはド・セヴラックの方である)、オーベールを除けばいずれもダンディ=スコラ・カントゥルムの人脈である点と、ルーセルを除けば、際立って中央集権的なフランスにあってパリを根拠にするのではなく、何れも地方に拠点を置いて活動をした点を挙げるべきだろうか。ジャンケレヴィッチの用いる「峻厳な」という形容と「誇示癖がない」という形容もまた、そうした点と相関する面もあろうが、ともあれ上記のジャンケレヴィッチの言葉は、マニャールの音楽がそれを知る決して多くはないであろう人間にどのように受け止められているかを物語る例にはなるであろうし、同時に忘却の原因の一端を示唆していることにもなるのではなかろうか。

 外面的な事実を挙げるなら、マニャールの名はパリ16区の通りの名前として記念されているという点を指摘しておくべきかも知れない。興味深いのは、それがパッシーと呼ばれてきた高級住宅街に位置していることよりも、その命名の由来の方であって、実はもともとは1904年の開設以来(途中1923年に延伸されたが)、当時流行の作曲家であったワグナーの名を冠していた通りの名前がマニャールの名を冠するようになったは戦間期の1927年のこと、敵国であったドイツの文化的アイコンであるワグナーの替りにマニャールが選ばれたのは、彼の死にまつわるエピソード、つまり第一次世界大戦時に、侵入してきたドイツ軍に対して屋敷に立て籠もって戦い、屋敷ごと焼かれて死亡したという事実によるらしい。焼き払われた後廃墟となった屋敷の写真は、今ならインターネットを介して見ることができるが、それが絵葉書の写真に選ばれたこともまた、通りの改名と同様の事情があったと考えるべきであろう。ベートーヴェンを尊敬し、ワグナーの影響が明確なその音楽にも関わらず、ここではマニャールには「愛国者」としてのコノテーションが付き纏っているようなのだ。

 ところがマニャールその人の生の軌跡を辿る限りでは、彼は寧ろ、同時代の形容では「進歩的」と形容されたであろう思想の持ち主のようである。それは彼の作品にも刻印されていて、最も著名なのは、ドレフュス事件に因んでドレフュス派の立場で書かれた管弦楽曲「正義への讃歌」op.14であろう(ちなみにダンディは反ドレフュス派だった)。それ以外にも彼の作品の頂点を為す第4交響曲op.21が女性によるオーケストラ(l'Orchestre de l'Union des femmes professeurs et compositeurs )に献呈されていたりもする。その音楽の同時代において既に時代遅れと受け止められたかも知れない保守性と、こうした作曲者の思想的な進歩性との間に或る種の不整合を見出す向きがあっても不思議はなかろう。

 要するに「仮面とヴェールで覆われている」かどうか、「半薄明で薄明り」の裡にあるかどうかはともなく(私は個人的には、ことマニャールの音楽に対してはこのジャンケレヴィッチの形容は適当とは思わないが)、マニャールが置かれた状況というのは、マニャールの人と作品が寧ろくっきりとした明確な輪郭(それを「峻厳」と呼べば呼べるだろう)を帯びているにも関わらず、錯綜としているようなのである。

 因みに「誇示癖のなさ」の方は(上記の文脈ではジャンケレヴィッチは明らかに音楽について語っているので、それをあえて意図的に捻じ曲げて言うことなるが)確かにその通りであって、彼は社交的な人間ではなかったし、(これまたベートーヴェンを思わせるが)ある時期以降は難聴に悩まされて引きこもりがちであった上に、自己批判が非常に厳しく、創作に対する姿勢は、こちらはまさに「峻厳」と形容するに相応しいものであったようだ。作品の多くは自費出版、しかも初期の評価が定まらない時期のものがそうなのではなく、寧ろ中核的な作品群(作品8~20)がそうなのであって、それ故大手出版社の宣伝や販促活動の恩恵に浴することもなかった。というよりそれを拒絶したというべきで、そこにはフィガロ誌の編集主幹として著名であった父親の権威を結果としてであれ借りることへの反発が関わっていると見るのが自然だろう。(それが父親その人に対する反発ではなかったことは、「葬送の歌」op.9が父親への追憶のために書かれていることから窺える。)経済的にも彼は親に依存することを良しとせず、自立することを自らに課したようである。こんなことは、でも、音楽には関係ないと言うだろうか?一般論としては確かにその通りかも知れないし、そのようにすべきなのかも知れない。だが、ことマニャールに関して言えば、マーラーのような意味合いで作品を自伝的に読むことが可能であるという訳ではなくても、なぜこのような肌触りの作品群が遺されたのか(ちなみに上記の経緯で屋敷の消失により手元に存在したかも知れない草稿の多くが灰燼に帰した結果、彼の死後に遺された作品は、作品番号にして20をようやく超えるに過ぎない)を知ろうとするならば、作曲者のそうした気質の反映をそこに見るのは避け難い。何なら作品が産み出される環境の一部として作者を捉えても構わないが、いずれにせよマニャールその人の個性が作品に刻印されていることは否定できないだろう。

 それでもなおマニャールその人は一先ず措いて、遺された作品の方はどうなのかと言えば、こちらもまた「誇示癖がない」という形容については妥当であると見る向きが大方のようである。管弦楽曲のみならず、室内楽もまた構想は雄大で書法は念入りであるけれど、所謂ケレンのようなものが無いというのも衆目の一致するところのようである。色彩感に欠ける訳でもないし、内面に閉じこもった「主観」の音楽では決してなく、外に向かって開かれているし、低回趣味というわけでもないのだけれども、何か「新しい」風景が垣間見える瞬間といったものには欠けている。独自性に欠けるわけではないのは、彼の作品の音調がフランキストの中でも異色のものであることから明らかだし、例えばワグナーの影響一つとっても、多くのフランキスト、或いはスクリャービンの中期作品とかにあからさまな、あの温度の高い、噎せ返るような甘美さとは無縁である。だが一方で、フランス音楽としては例外的と感じられる程に《熱情がこめ》られているのにも関わらず、規範を尊重するあまり、それを打ち破り、アドルノ風に「唯名論的」に下から上へと作曲する衝動というのは感じられないし、何か未聞の響きが、未知の風景が地平の彼方から到来するといった瞬間は、マニャールの音楽の中にはないようだ。理知的と言えば、これもまた「フランス性」の記号ということになるのかも知れないが、ここでは熱情は放恣に走ることなく、意志の力で、時代遅れと受け止められかねない形式の枠の中にきっちりと収められているかのようなのだ。

 だが、だからといって「進歩」に資することのなかった或る作曲家の作品が、それゆえに後世にとって最早「用済み」であって、忘却の彼方に消え去っても仕方ないし、そうなっても構わないという考えには私は全く同意できない。否、寧ろ、時を隔てて、場所を違えて作品が甦るとき、それがもともと置かれていた文脈においては読み取ることができなかった部分、光が当たらなかった側面がようやく明らかになるということがどうして起きないと言えるのか?勿論、アプリオリに定まる「本来の」文脈が存在するという訳ではない。今、ここを特権化することなどできない。だけれども、もともと同時代にあって既にアナクロニックであったものは、時を超えてではなく、時を潜り抜けて、それを必要とする聴き手に辿り着くのを待っていたということはないだろうか?私が何某かを主張できるとしたら、それは偏に、それを必要とし待ち望んでいた(しかもそうであることは事後的にしかわからない。ベルクソンは『思想と動くもの』の「緒論第1部」および「可能性と事象性」において、そうした逆行的、転倒的な時間性を作品の創造に関して述べたのであったが、それは作品の受容に関してもまた成り立つと考えることはできないだろうか)という点に存しているのだ。

 誰の壜を誰が拾うかはそれぞれで、そこにも偶然が大きく関与していることだろうが、様々な環境の要因の複合により、とにかくマニャールが遺した「投壜通信」を私は拾ったのだ。それは声高に自分の存在を主張しはしないし、低回趣味に徹して、「日常」(そこには天変地異であったり病苦や死といった出来事からの恢復の過程、「生き続ける」ことも含めるが)を乗り切るためのよすがに徹するわけでもなければ、地平の彼方からの何かの到来の記録というわけでもない。聴き手に対して語りかけたり、手を差し伸べたりするわけでもない。だけれども、それらのいずれかでなければ価値がないということにはならないのではないか。寧ろそれは「生きる事を学ぶ」ことを、語りかけるでも強制するでもなく、自らの挙措によって、受け取り手に対して密やかに示唆し、そっと促すような存在なのだ。それが「効果」という点で如何に限定されたものであったとしても、否、仮に、或る具体的な場合においては「効果」としては無であって、あってもなくても同じことのようにしか見えなかったとしても、その結果だけを見て、それを不要のものと決めつけることはすべきではないだろう。生物学的な適者生存を文化的・社会的な次元に不当に拡張して敷衍することの危険は、まさにマニャールの同時代に明らかになりつつあった。にも拘わらず、文化的・社会的な領域でも、進化論的な適者生存というのは、今や恰もそれが「原理」であるかの如き様相を呈しつつある。否、それは最終審級においては正しいのであろう。だけれどもそうならそうで、生存のための戦略は、一見してみてわかる進歩を、目先の効用を備えていることとばかり限ったわけではないだろう。生物の生態系でも思わぬところにニッチが広がって、粗視的には想像がつかないような多様性が存在し、まさにそのことが生態系を支えているということが起きる。ましてや文化的・社会的な領域では、そうしたニッチを許容しない(例えば、それが受け手にとって「不愉快である」という理由で、存在する場すら奪ってしまおうとする)立場は、結果的に生態系を脆弱にしているのである。

 世界の片隅に、100年前の異郷の、稍もすれば見失われがちな音楽が存続する領域があるということの価値を信じて、私はマニャールの音楽に対して「ウィ」と言って、それを歓待することを選ぶ。この文章を綴り、公開することはそのことを行為遂行的に証しするためのものである。どうかその「歓待」が、ひどく貧しくて慎ましい、他人が見たら歓待などと呼ぶに値しないものであることについては許して欲しい。そしてそれは拾った壜に対する遅ればせの「返答」であって、それは全くそうしなくても同じことではない、見た目は区別がつかなくても、そうではない、ましてや逆効果になることは(そういう可能性が常にあることに対して目を背けるつもりはないけれど)ないと私は信じたい。否、単純に、その音楽が湛える佇まい、その音楽が浮かび上がらせる風景、その音楽が聴き手に働きかける力の大きさに聴き手は圧倒されることになる。そればかりではなく、その音楽が垣間見せる風景に、「現実」のどこにも見いだせなかった、そこで自分がほっと一息つき、安らい、或いはそれに同調することで己を解き放ち、精神の働きの自在さを恢復することのできる空間を発見することになる。そして、斯くも質の高い作品がほとんど知られることなく、その価値が認められていないことに驚き、何か不当なことであるかのように感じから逃れられなくなる。そして私はそのことを事実として証言することを選ぶ他なくなるのだ。私は密やかに、そっと小声で、しかし誇らかに証言する。私は確かに「投壜通信」を拾ったのだと。何故ならそれは、壜を拾ったものの責務だからだ。遥かに遅れて、遠くからであっても、応答すること、それを証言することによる他、自分がコミットする価値を自分を超えて存続させることに寄与することはできないからだ。

(2019.11.2-3初稿・公開, 2023.10.15加筆, 2024.6.23 noteにて公開)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?