日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(19)
19.
若林は作品の解題において、「ほんらい相対的でしかない自己の価値とモラルを、絶対的なものであるかのごとくいつわって、 自他に呈示しなければ生きてゆけないのが、現代人である。」という、まさに自己のものでしかない見解を断定してみせるが、こうした断定、 すべてを相対化してしまい、超越的な価値を拒絶する姿勢が、「すべては許される」に繋がる病根であることには一向に無頓着だ。 その伝で『背徳者』も「自由」という思想のとりこになることで、真の自由を失ったとされるわけだが、こうした評価は、その先にまるで 真の自由があるかの如きレトリックを備えていることで人を惑わすものだろう。かくして自由に関する本当に問題となる弁証法は こうして素通りされるのだ。ついでに言えば『一粒の麦もし死なずば』の題名の意味についても、「人格が自意識を持ち自己中心的 であるかぎり、発芽力を持たないのです。」という随分論理に飛躍のある命題をたて、「人格が生命を獲得するには」などと、 いきなり矛盾した言い方をはじめ、「いったん死に、根本的な変質をとげなくてはなりません」というような、「死」の意味を 今日ならばゲーム感覚的な捉え方をしたような説明を続け、果ては「長いこと胸中にくすぶっていた諸問題を、白日のもとに さらけ出すことで、それらを死滅させ、自己中心的でない別な生命を手中に収めようとした」というとんでもない結論に達するのである。 そしてその傍証として、その後ジッドが社会問題に目を転じることを挙げるのだ。
まず「人格が自意識を持ち自己中心的である」とはどういうことか。人格と自意識の有無の関係、そして自意識があることと 自己中心性の関係はどのようなものであるのか?自意識を持たない人格が可能なのか?それをなお人格と言うのは 何故なのかに答えられねばならないだろう。「人格が生命を獲得する」ことがどういう事態を指しているのか、読み手には遥として 知れないが、ここで問題なのは、人格が生命を獲得することなどではなく(死ぬ前には生命を持っていたのだから、それが 目的なら、改めて獲得などという必要はそもそもないだろう)、「たくさんの実を結ぶ」という表現で言われていることのはずである。 そこが押さえられていないので、「長いこと胸中にくすぶっていた諸問題を、白日のもとにさらけ出すことで、それらを死滅させ」 と死滅の主体のすりかえをやってのけ、しかも、胸中の問題を公然のものとしてカミングアウトすることによって、「自己中心的でない 別な生命を手中に収めることができる」といった論理のすり替えをしてしまうのだろう。単に自意識が抱えていた問題を、 他人に告白することによって自己解放が得られるくらいのことを意味しているのだとしたら、「一粒の麦もし死なずば」という 聖句も随分と安売りされるようになったものである。一方で、タブーに属することの告白が批難を呼びおこすこと、その批難を 耐え忍ぶことがここで通過すべき「死」であるわけもない。そうした次元での把握こそ、克服されるべきものであるはずの 自意識の運動から一歩も外に出ることができていない。
勿論ただちに、「批判されるべきは若林ではなく、ジッド自身だろう。若林はジッドの主張を代弁しているだけなのだ」といった 反論が起こることだろう。もちろん、ジッド自身がそうした勘違いをしていた可能性は充分にあって、『背徳者』から『 法王庁の抜け穴』そして『贋金づくり』へと流れる不毛な歩み、それを経ての物語の三部作構成による小説化の試みが 示すように、あるいはより直接的にジッド自身の発言、記録などからも伺えるように、ジッドは間違った方向に進んでいったのだ ということは言えるだろう。だが、『狭き門』や『田園交響楽』といった作品、いわば反面教師であるはずの、あるいは過去への 後戻りであるはずの、登ったら捨てられる梯子であったはずの作品が寧ろ永い生命を持ち続け、今後もそうに違いないのには 相応の理由があって、それらの作品のうちでこそ、本当に意味での「一粒の麦もし死なずば」の探求が為されているから なのだ。ジッドはそれを登場人物にやらせて、自分は逃げ出したのかも知れないが、そうして永遠の生命を得るのは生ける ジッドではなく、作品であり、作中人物の方なのだ。ジッドの誠実さというのは、ジッドが文学者として、職人的に美学的な 観点に拘ったとき、あるいは物語る衝動に最も自己中心的に忠実であったときにこそ最大限に発揮されたというべきで、 まさにジッドが、自分が作ったのではなく、自分を通して作品が自ら生成したと述べた瞬間にこそ、「一粒の麦」の播種が 為されたのである。ジッドが自分の奥底の衝動に忠実に、もしかしたら自己の意に反して書き上げた作品である 『狭き門』こそ、ジッドの営みの中で、「一粒の麦もし死なずば」の聖句に最も忠実なものだったのだ。
従って、「想像世界のなかで築きあげた美を、作者自らの手でこわしてしまうこと」が「ジッドの作品構成法であり、お家芸」であるといった ような、あるいはジッドの作品を「固定観念のとりこになった人間の悲劇ないし喜劇を」書き続けたものであるといったような「解説」、 そして自伝『一粒の麦もし死なずば』という題名を「解説」して、「一粒の麦というのは人格を指しているのであって、人格が自意識を持ち 自己中心的であるかぎり、発芽力を持たないのです。人格が真の生命を獲得するには、いったん死に、根本的な変質をとげなければ なりません。ジッドが試みたのは、まさにこれでした。長いこと胸中にくすぶっていた諸問題を、白日のもとにさらけ出すことで、それらを 死滅させ、自己中心的でない別な生命を手中に収めようとしたのです。」といった風な「解説」、そしてその結論するところが、 「《自己》から《他者》あるいは《社会》の問題に、関心の的を移しはじめたのが、その何よりの証拠ではないでしょうか。」といった「解説」は 一見したところ、説明になっているようで、実際には問題から目を逸らすことにしかなっていない。もし、それが意図されたものであると すれば、《他者》たる読み手を蔑ろにする姿勢において欺瞞的な姿勢だし、逆にそうではなくて、本当にそうであると信じていたとしたら、――しかも、ジッドの自伝の背後にある私生活が、まさにその時点で決定的に破綻した事実を知った上でそうであるとしたら――、そうした 解釈こそがまさにジッド風の「誠実」という「固定観念」に容易く屈しているという点で滑稽でもあり、その一方で、そうした単純化が ジッドの作品自体が提示する自意識の問題の深みを徹底的に見損なっているという点で、「解説」としては有害なものですらあるだろう。
勿論、問題はジッドを研究の対象としている者のそうした解説が語るほど単純明快な筈はないし、それは寧ろ作品を読めばわかることだ。 ジッドが病んでいた自意識の病とは、解説のようにして克服されたものではなく、寧ろジッドに憑依し続け、ジッド個人のみならずその 周囲の人間を蝕んでいった。「想像世界のなかで築きあげた美を、作者自らの手でこわしてしまうこと」がお家芸であるとしたら、 それこそがジッドの「固定観念」なのだということに、そしてそれこそが問題なのだということに気付かないのはどうしてか? あるいは気付かない振りをしているのか?ジッドが蒔いた一粒の麦、それは「解説」が述べたのとは全く異なる仕方で、発芽力を持ちえた。 まさに『狭き門』のような「固定観念のとりこになった人間の悲劇」を作品化して定着させることによって、あるいは一度限りの例外として (決して自伝『一粒の麦もし死なずば』ではなく、)『田園交響楽』に、「想像世界のなかで築きあげた美を、作者自らの手でこわしてしまうこと」 という「固定観念のとりこになった人間の悲劇」そのものをその末期的な相において、恐らくは自らの意図に抗し、意図を裏切るような 文体によって一度限り定着させることによって、「一粒の麦」となったのだ。
一見するとジッドの告白は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』においてゾシマが神秘的な客に対して促す告白に、イワンの譫妄状態で為される証言に似ているかに見える。 けれども、それを混同することは、逆説的に『狭き門』の末尾に「恋人を失い、純愛の夢に破れて廃人あるいは死屍のようになったジェローム」と 「現実の家庭生活の幸福を築きあげることに成功したアリサの妹ジュリエット」が涙ながらに「忠告」するという驚くべき解釈と裏腹なのだろう。 ジッド自身もまた、恐らく『カラマーゾフの兄弟』の銘に同じ聖句が引かれている、その意味合いを理解できなかったのかも知れないが、 この解釈は、ジッドの無意識が、心の奥底の衝動が、自意識の「破壊ごっこ」遊戯に抗して「作品」の中で守りきろうとしたものを毀損してしまう。 それがジッドの権威としてあちらこちらに解説を書き散らしている研究者によって為されるのであるから、絶句せざるをえない。