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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(25)

25.

1991年11月というから、「田園交響楽」の舞台となった時代から1世紀後、引退した牧師からの電話で開始される物語は「「見えて」いても「見えない」」と 題されている。性別は入れ替わっているし、そこには父子のオイディプス的葛藤もない。牧師の娘が結婚しようとする50歳近いヴァージル(「田園交響楽」において、 ジェルトリュードが言葉を習得し、視力を得るのに実質的な寄与をしたマルタンという医師が、ヴェルギリウスを引用していることを思い出しておこう。彼は Fortunatos nimiumの後には、Si sua bona norintよりもSi sua mala nescienの方が相応しいと述べる)という先天性の盲目の男が、結婚式を前にして 開眼手術を受けて成功するところから、100年後の物語は始まる。語り手は、牧師ではなくオリヴァー・サックスという神経学者・医師ではあり、 手記のかたちもとらない。そのかわりにヴァージルの包帯が取れた日から牧師の娘エミーがつけ始めたとされる日記が引用される。「ヴァージルは見える!…みんな 涙にくれた。ヴァージルは40年ぶりに視力を取り戻した…ヴァージルの家族は興奮し、泣いて、信じられないと言った!視力回復という奇跡、夢のようだ!」 翌日の日記で問題が起きたことがうかがえるところまで一緒だが、その理由は全く異なる。ジェルトリュードは(ドラノワの映画では、直接そのシーンが 撮られているが)、開眼後、いきなりジャックの顔を認識したとされる。しかしどうやら、それは御伽噺の世界の出来事のようだ。サックスは以下のように記す。 (引用はすべて早川文庫版の翻訳による。)

「わたしが聞いたところでは、ヴァージルは包帯が外されると医師と婚約者を見て微笑みかけたという。たしかに彼の目はなにかを見たのだ。だが、なにを見たのだろう。 盲目だった人物が「見る」というのはどういうことだろうか。」
「真実は、(のちに知ったところでは)エミーの日記にある「奇跡」というようなものではなく、非常に奇妙なものだったらしい。劇的な瞬間は手応えがないまま、 じりじりと過ぎていった。ヴァージルの口から叫び声(「見える!」)は発せられず、彼はとまどったように焦点のあわない目で、まだ包帯を手にして目の前に立っている 医師をぽかんと見ていた。医師が「どんなぐあいですか?」と口をきいたとき初めて、ヴァージルは合点がいったという表情になった。」
「あとになって、ヴァージルはこの最初の瞬間のことを、なにを見ているのかよくわからなかったと語った。光があり、動きがあり、色があったが、すべてがごっちゃになっていて、 意味をなさず、ぼうっとしていた。そのぼんやりとした塊のひとつが動いて、声がした。「どんなぐあいですが?」そこで初めて、この光と影の混沌とした塊が顔だと気づいた。 それは執刀した外科医の顔だった。」

ヴァージルは、手術後の最初の数週間は、深度と距離の感覚が全く掴めなかったという。そんな人間が一人で歩けば、ジェルトリュードがそうなったように、 川に溺れることも何ら不思議はない。恐らくは牧師の記した最後の3日の日記の記述、ジェルトリュードの言葉のうち、視覚に纏わる部分は、色彩についての 驚きを語った部分を除いて、ほとんどが虚偽であったであろう。牧師が嘘をついているのでなければ、錯乱して妄想に陥っていて、そうした自己の状態に気付かない のかも知れない。あるいはジッドが嘘をついているのか、あるいは出鱈目を書いているのにそれに気付かないかのいずれかであろう。現実には、最後の可能性が 最もありえそうだ。サックスが記録した事例は100年後のものだが、彼の言うとおり、こうした事例は18世紀から蓄積されていた筈である。勿論、文学者の無知を もって文学作品の価値を測るのは、筋違いもいいところだろう。だが、いずれにせよ、ジェルトリュードが本当に何を経験したかには関心がない、牧師も、ジッドも 関心がなく、彼らにとっては自己のみが問題だったのだという事実は残る。

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