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たかがタオル、されどタオル

小学校の修学旅行を目前にしたある日
私は母にお願いして近所の衣料品店でプーさんのタオルを買ってもらった。

2枚組のそれは、特にふわふわでもしっかりした生地でもなく、よく粗品で使われるような糸がほつれやすい薄手のタイプ。値段ははっきり覚えてないが、そういう品質のものだから決して高くはなかったと思う。
同級生の子たちがよく使っているキャラクタータオルに比べたらだいぶショボい代物ではあったが、私はとっても嬉しかった。
私も修学旅行に好きなキャラクターの新品のタオルが持っていけるという喜びでルンルンだった。

なにせ我が家のタオルは一体いつから使ってるのか分からないような古くてごわごわのものばかり、デザインは良くて無地、どこかの会社名が入っているザ粗品というものも多かった。修学旅行には絶対に持って行きたくないようなものばかりだった。

そうして新品のキャラクタータオルを手に入れた6年生の私は、修学旅行が一気に楽しみになってきた。

だが、そんなルンルン気分は長くは続かなかった…

その夜、父はその事実を知るやいなやすごい剣幕で怒鳴り散らした。
「タオルなら腐るほどあるだろう!」
「贅沢だ!」

私のルンルンは即終了。
修学旅行に行く気すら失った。
もう行きたくないと言ったら、さらに怒られた。
恐怖と悲しみと怒りで泣いた。

その時もいつも通り母は私の味方をしてくれなかった。

なんでそこまで怒られなきゃならない?
私はそんなに悪いことをしたのか?

私が勝手に買ったわけじゃない。その当時お小遣いも貰っていなかったから、母に頼んで買ってもらった。母はそれくらはいいいと判断したからお金を出してくれたはずだ。

私が駄々をこねたわけではない。
そもそも私は駄々をこねたことなど過去に一度もない。そもそもそんなことする意味がないと幼少期から分かっていたから。
意向は伝えるものではなく、大人から押し付けられるもの。

母が買ってもいいと判断したから買ってもらえた。でも、父に怒鳴りつけられる私のことはフォローしてくれなかった。
父の言うなり。
自分が怒られるのを避けて意見は言わない。私はそんなに完全否定されるほど悪いことをしたのだろうか?私の思いはあってもないのと同じなのだ。後からこっそりフォローとかも一切ない。

自分はだめなことをしたんだ。自分の小さな欲望も我慢しなくてはいけないんだ。自分の欲望のためにお金を使うことは例え少額だっていけないことなんだ。欲望は封じ込めなくてはいけないのだ。

私はどんどん雁字搦めになっていった。

私がどういう思いを持っていたか。
私がどれだけ嬉しかったか。
私がどれだけ悲しかったか。
私がどれだけ傷付いたか。

私の感情が最初から最後まで全く取り扱われないこと。
それは悲しく虚しく絶望的なことだった。

それが繰り返されて私の苦しみがどんどん募っていることに誰も気付いてくれない。
たぶん気付く気がない。

私には味方になってくれる人がいない。

私は、私であっても、私でなくてもどっちでもいいしどうでもいい存在。



そんなこと今更どうでもいいが…
実は新品のブランドもののタオルは本当にたくさんあったらしい。だからタオルが腐るほどある。は事実ではあったらしい。
どこに眠ってるか知らなかったけど。
ブランドものの新品のタオルがあったからって私の思いは満たされなかったけど。

てかそんなにたくさん良いタオルがあるのに、破れたりほつれたりした汚いごわごわのタオルをずっと使わされてるのは一体どういうこと?
もったいない精神にも程がありますよね?それに使わない方がもったいないことになってますよね?
腐るほどあるというタオルが、実際に腐ることはない。コレはいつ使うんですか?
せっかく新品のまっさらなタオルなのに、あまりに長い間保管していたせいでシミになっているものもあった。まっさらな気持ちいい状態で使うこともできない。今更人にもあげられない。

ものを大切にすることの本質をはき違えてませんか?
人のことは大切にしないんですか?

日々の生活でボロボロごわごわのタオルを使って、腐るほどある新品のタオルはずっと押し入れにしまいっぱなしでどんどん品質が落ちていく。

私には理解できない価値観。
あれだけ日々合理性を押し付けてくる父親が、こういう時だけ一貫性のない独自の特殊な美学による価値観を有無を言わさず押し付けて、個人の感情を完全に叩き潰してくることは到底受け入れられない。
受け入れられないことなのに、無理矢理受け入れさせられることに激しい怒りと嫌悪がたぎり、やがて虚無感を生み出す。

今だから言語化できること。

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