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微分積分学には三層ある

今回は、近代数学史に関する話をしていきたいと思う。主には「近代数学史の成立 解析篇」および「数学史のすすめ」の2冊(共に高瀬正仁 著)を参考文献として、関数論史に焦点を絞って話をしていく。と言うのも、学校で普通に習う数学にせよ、現在のアカデミズムの中で行われている数学にせよ、数学の原初の姿は見る影もなくなり、とても大きなある種の歪みを伴ってしまっている。数学史を知ることは、数学が歴史的に生成されてきた営みに沿うことにより、原初の姿に立ち返ることにつながる。数学史を通じて、ぜひ数学への見方をアップデートしていただくことを期待している。

関数論史と言うことで、関数という概念が歴史的にどうやって生まれ、どう発展してきたのか、という視点に立って考えていきたい。すなわち、微分積分学の歴史について見ていこう。
あまり広く知られていないが、実は、微分積分学は三層からなる。ここで三層と言う意味についてまず説明する。現代から見て、ついつい数学を単調進歩主義的に見做しがちである。つまり、例えば微分積分学にせよ、曖昧なものから段々と高度に発達して、次第に厳密なものになっていった、というように。これは数学の「技術的な側面」については正しいが、このような数学を科学技術の一種であるかのように見做してしまう態度はよくある誤解のひとつである。そうではなくて、微分積分学は「思想的な側面」において二度の大きな変遷を遂げており、それが層のように(あるいは木の年輪のように)積み重なって発達してきており、それら全体でひとつの微分積分学という理論体系を形作っている。なので、まずは数学史を直列的(=単調進歩主義的)に見るのではなく、並列的に見ることが大事である。この『微分積分学には三層ある』と言うことを是非とも念頭に置いて欲しい。

では、三層について具体的に見ていくことにしよう。

一層目は、まだ関数という概念を持たない“曲線の理論”として発展している層である。この層は主に、デカルト・フェルマ・ライプニッツ・ベルヌーイといった人々によって形成された。この人々を突き動かしていたモチベーションは「曲線に接線(あるいは法線)を引きたい」という欲求である。彼らは、曲線について知りたいという極めて特殊な欲求に支えられて、そのためには接線(あるいは法線)を引く方法がわかればよいと考えた。ライプニッツにより相当な完成度(万能の接線法と呼ばれる)まで高められ、接線法と逆接線法(=接線から元の曲線を復元する方法)が確立された。これが微分と積分の原型となる。

二層目は、オイラーの世界である。数学の世界に関数の概念を持ち込んだのが、他でもないオイラーその人である。オイラーが関数を導入した土台には、二ュートンの流率法とライプニッツの無限解析があり、オイラーは流率法(ニュートン力学)を無限解析の手法を適用して精密化しようとした。そのためには無限解析そのものをより強力なものへと作り替えていく必要が生じ、その過程で今日の微分積分学の原初的な姿が創造された。この世界は、私たちが普通知っている微分積分学ではない(!)と言ったら、きっと驚かれるのではないだろうか。既に述べたように微分積分学は「思想的な側面」において変遷を遂げており、普通知っている微分積分学はコーシー以降の三層目のため二層目は見えなくなってしまっており、オイラーの世界すなわちオイラー的感性は今日では全く忘却されていると言ってよい。

ここでは、その一端を紹介しよう。

オイラーにとって関数とは「曲線の解析的源泉」である。あくまで曲線が主たる対象であり、曲線を関数のグラフとみなすというオイラーに独自のアイデアによって、接線を引くという曲線についての幾何学的な方法に対して、関数の微分として解析的な方法に昇華し、さらに一度完成すれば、微分の規則を抽出して整備すれば代数化も可能となった。すなわち、微分を『演算子』とみるという今日からみれば常識と化している視点だが、私たちは微分をはじめから完成されたものとして習うので有り難みがわからないようになっているだけで、微分を『演算子』とみるという視点の獲得は歴史的にみて非自明の産物である。オイラーの世界においては曲線と関数が渾然一体となって存在しているのであり、あくまで主題は“曲線”にある。このことを覚えておいてほしい。関数は《曲線について調べるツール》として導入され、幾何学的な接線法は解析代数的な微分法に昇華されるに至った。これがオイラー的感性を貫く支柱である。そして、この感性は今日の微分積分学からは完全に欠落している。数学の技術的な側面のみをみるならば、それでもよい。が、思想的な側面からみるとき、どうしても「なにか大切なものを(今日の微分積分学は)見失っているのではないか?」という感が残る。

また、オイラーは「無限小量」という概念を用いる。現在では曖昧なものとして避けられていて、すなわち微分$${dx}$$に実体(reality)を感じ取っていたオイラーに対して、現在では単に形式(form)として扱っている。いわゆる微分形式である。微分を習うとき(学校や書籍など)、関数$${y=f(x)}$$について$${dy/dx}$$は極限を用いて定義される。この際、$${dy}$$や$${dx}$$そのものには単独の意味はなく、$${dy/dx}$$というひとつのまとまりに意味があるとして扱うのが現在の私たちが知っているものであり、三層に属するコーシーの流儀である。一方で、例えば変数分離型の微分方程式を解くときに、$${dy}$$と$${dx}$$を分けて扱い計算を行う。この辺りに、二層と三層、オイラー流儀とコーシー流儀、で時代の錯誤が入り混じり、現代にもその名残りがあるが、現在の教科書では大体は「形式的にこう扱うものとする」とか言ったりしてなんとなく誤魔化して、騙し騙しやっているようなところがある。

オイラーが$${dy/dx}$$を扱うとき、もちろん極限の概念などなく、$${dy}$$および$${dx}$$は何かと言えば、それぞれ$${y}$$および$${x}$$の微分と呼ばれる無限小量(正確には無限小変化量)であり、それは$${dy}$$および$${dx}$$のとる値がつねに無限小であることを意味する。無限小とは?と問われたならば、「どのような値よりも小さいことである」と答える。それは0ではないか!と反問されたら、「その通り」と応じる。それがオイラー流儀である。
そして、$${dy}$$および$${dx}$$にはなるほど大きさはないかもしれないが、0と0の比は有限の値をもつことがある。私たちが関心を寄せているのは、その比の値なのだ!とオイラーは言う。
重要なことは、オイラー流儀は、「無限小量(微分)は実体をもつ」というオイラーの確信=オイラー的感性に“共鳴する”ことができれば、オイラーの議論に感情の満足が随伴するが、現代のように単に形式としてのみ見るならば、曖昧なものとして目に映じ、受け容れることは到底できないと思う。オイラーの世界とはこのようなものであり、現代数学との異質さがよくわかっていただけるのではないかと思う。

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