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『踊っているもの』としての言葉

言葉。とは何だろう。人類にとって言葉は、これまで如何に在り続け、これから如何に在り続けるのだろうか。日々何かしら言葉に依って書いている。言葉に触れない日など想像すらできない。言葉は頭の中には決して留まらず、手や肚などに這入ったり漏れ出したりしてゆく。言葉を止ったものとして捉えるより寧ろ『踊っているもの』として捉えるとき、言葉は肚から湧いて手に吸い付き頭に昇る。すると言葉を用いる際に、人間の意志が届く範囲と云うのは、実は極めて狭いことに気づかないか。人間の勝手が効かないことは、人間にとっては言葉に対するある種類の《制約》が課されることに他ならぬ。日本には適例として俳句がある。よく知られている様に、俳句は「五・七・五」の型に従って言葉を用いる。芭蕉の語る言葉はまさしく踊っているものであり、それ故に人間の意志を超えた極めて広い情景を言葉によって巧みに想起させることが可能になっている。俳句の適例からわかるように、言葉に対する《制約》と「型」との間には曰く分かち難い密接な関係がある。《制約》は「型」に支えられ、「型」は《制約》を支え返す。近代(都市)は、言葉に対する《制約》を解除することが恰も言葉への自由を獲得するかの如く盛大に勘違いを犯し「型」を崩壊せしめてきた。そう云う化石となった言葉は、頭と云う先端のみで止っている。言葉と手や肚の断絶が近代の背負う罪であった。人間の意志で制御できることが自由なのではなく、寧ろ人間の意志を超えた自然なることこそ自由というものであろう。そう思うと、言葉は案外に便利でない。なにせ人間の勝手が通じない代物なのだから。言葉は止ってなど居ない。言葉は常に『踊っているもの』という認識を忘れずに、肚から湧き出し手に吸い付けて、ようやく頭まで昇ったものが、こうして文体となってゆく。こうした日本的精神を、夏目漱石の言葉を借りて則天去私と呼ぶ。言葉は私のものではない。私を去りて天に則るところに言葉の住処がある。つまり「型」とは「天の掟」のことに他ならぬ、そして《制約》とは『踊っているもの』としての言葉本来の姿を見る方法であることがわかる。

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