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近況報告2024.6.18

先週のことになりますが、富士山のお近くにて、私のお役目である魂振り(たまふり)のセッションをさせていただく機会があり、また一段と深い経験を積むことができました。魂振りとは、魂を振るうことでありますが、それにより「中庸」と呼ばれる状態へお戻しすることが私の行なっていることの一つの意味だと思っています。

では「中庸」とはいかなる状態のことを指すのか。
それがすごく大事なことになります。
(説明は対面でのみお話しているので、ここでは文章化は止めておきます。)

最近、私の感じている中庸についてお話する機会がとても多く、今回も中庸についてセッションさせていただいた方々とも共有を致しました。

今のところ100%で、一般的に言われる中庸と私の伝えている中庸は意味が全く異なること(むしろ真逆とも言えるかも知れない)、しかし私の感じている中庸について、皆さんがしっくりと腑に落ちて納得される様子を目にして、さらに確信が深まりました。

真逆と言いますか、中庸を語るレイヤーが異なる、と言った方が良いのかも知れません。そして伝わる率が100%なのはきっと、私の伝えている中庸は100%私自身の確かな実感から発端しているからではないかと思います。

想像や憶測は一切なく、なんとなくのようなふわっとしたものでもなく、極めて確かな実感。そして、そのような状態(中庸)が確かに存在していること、それを皆さん直勘で感じ取っているからこそ、そういう方々が魂振り(たまふり)をキャッチして受けていただいているのかなと思っています。

そうやって、天に向かって眼を開く人が一人づつ、着々とこの現世の地球に立ち現われて出で来ていること。
学問の研究も、そういった開いた眼をもってしてやるのでなければ、何の意味もないと私は思っています。閉じた眼では、社会通念に惑わされ、真の創造など出来はしません。そういうことを私は岡潔先生から(時代を隔ててではありますが)学んできました。
ここらでいよいよ西洋の真似は止めて、日本人は日本民族に固有の情緒を表現していく道を歩んでいかなければなりません。数学も、日本の数学をやらねばなりません。

岡潔先生の言葉を一つご紹介します。

「日本文化は二千年に一人芭蕉を産み、千年に一人道元を生む文化であって、ラテン文化のように押し花即ち数学史を作る文化ではないのであるが、度々云うように今後は、ラテン文化も取り入れて、この二種類の文化を梯子の二本の柱のように使うのがよいのであって、且てのわたしは無意識的にではあるが論文1に対しても論文6に対してもこのやり方を使ったのである。」

春雨の曲第七稿p.307

私が一見して相反する領域に携わっているのも、この二種類の文化を梯子の二本の柱のように使って、より高みへと昇っていくためです。

情緒の世界と理智の世界。片方ではなく、両方を使っていく。それが真の意味での、霊性の向上なのではないかと、私は思います。感じることを超えて感じ、考えることを超えて考える。そこにきっと、未だ見ぬ新しい豊かな大自然の景色が立ち現われることを希望にもち、私は今日も生きる。

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