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海が原点?

材木座海岸で見つけたもの:心の原点に立ち返るひととき

仕事の時間をうっかり1時間早く勘違いしてしまったので久しぶりに材木座の海に行ってみました。こんなちょっとした空き時間に自然に行けるのも鎌倉の好きなところです。

波打ち際を歩きながら、そのリズムに耳を傾けていると、心が自然と落ち着いていきます。この場所は私にとって幼い頃の思い出が詰まった「心の原点」です。

ちょっとお話をすると、この材木座の海には思い出が詰まっています。
小学生低学年の頃、よく祖母や父とこの材木座の海辺を散歩しました。どうしてか毎回濡れてしまう靴やズボン。しょっぱい風の匂い、桜貝を探して歩きまわりました。冬の寒い日は自動販売機で買ってもらえる飲み物が楽しみでした。
学生時代にはライフセーバーとしてこの海に詰めていて、ファミリーやのんびり海遊びを楽しむ人を眺めていました。隣の由比ヶ浜と違って、静かで暖かくファミリービーチなのが誇りでした。
それと同時に事故を経験してからは、自然の美しさの裏にはいつも危険が背中合わせなことも同時に学びました。その経験は、私の生きる本質や美意識や考え方の原点でもあります。
材木座海岸はただ近所の海というだけでなく、暮らしとそのありがたさを感じさせる存在でした。地元の子どもたちを連れて自然体験活動をしたり、落ち込んだ時は一人で浜辺を歩いてやけっぱちになったり、彼女と歩いたり。いつでもこの海はそばにありました。

波に運ばれてきた漂流物や小石が砂浜に点在していました。一見すると雑然としているようですが、近づいてよく観察してみると、自然の力が作り出した模様や形状が驚くほど美しいことに気づきます。

材木座の海岸線は決して綺麗な浜辺ではないかもしれません。漂流物や貝殻、ゴミも時にたくさん落ちているし、時期によっては打ち上げられた海藻の磯臭さで臭いという人もいます。でもそれって誰にとって綺麗なんでしょう?リゾートビーチの様に人間にとって心地よいビーチが必要でしょうか。
海藻は打ち上げられて分解されて、養分として海に戻りまた魚の餌を扶養するサイクルが本来あります。そのサイクルを知らない人からしたら海藻だらけの海辺は汚いでしょうか。でもそれが自然だと思うのです。

ゴミだってもちろん自然環境からしたら不自然ですが、これだって人間の今のサイクルの負の遺産です。これはまたお話をしましょう。

海辺をよくよくみて歩くと、打ち寄せられた漂流物や砂浜に転がる小石が目に入ります。一見するとただのゴミや無秩序な自然物のように見えるそれらは、近づいてよく見ると驚くほど面白い発見と美しさ隠れていますよ。

例えば、海藻や木片に混じって見つけた青みがかった石。濡れた砂に埋もれていた古い陶器の破片。分解されて原型を失った魚の骨。そのどれもが、時間の流れや自然の力、そして人々の暮らしの痕跡すらその流れの一部だと語っているようで私は好きです。

海に行ってこうした漂流物に心留められる状況自体がこの忙しい日々の中では稀かもしれません。でもそんな漂流物を拾い上げ、手に取ってじっくり観察するたびに、なぜか心が静かになります。それは、人口では自然が生み出した形状や模様の美しさに感動するからかもしれませんし、ただ単に、日常の喧騒からい「今ここ」を眺めらレ、解放される瞬間だからかもしれません。


石についた貝殻の上についた貝殻の上について貝殻。時間の経過と最後は誰もいなくって波に長い時間もまれることで独特の形になったのでしょう。手に取ってみると、その繊細さと脆さと複雑な模様に心を奪われます。おセンチになれるのが海の良さです。
打ち上げられた魚の骨は、自然のサイクルを感じさせます。かつて海で泳いでいた命が、こうして形を変えて海岸に漂着し、また自然の一部へと還っていく。その儚さと美しさを静かに語りかけてくれます。

砂浜で見つけたこの陶器の破片。これは恐らく近年のものでしょう。昔誰かが使っていたものが波に洗われ、こうして新しい一面を見せています。器として使われることは2度とないその青い模様が、時の流れの中で美しさを失わないことを教えてくれます。鎌倉時代の器の破片が出てくることもあります。
この青い石はどこから来たのか、どうしてこんな形になったのか。じっくり眺めると、自然の力が生み出した偶然の美しさに心を奪われます。こんな石との一期一会も海散歩の楽しみでもあります。きっとこの石は大谷石か伊豆石、佐島石の様に海底から隆起した地層の石でしょう。深い青みが素敵です。奥の穴だらけの石は海辺に多い凝灰泥岩を貝と波が形を作ったものですね。

1時間の寄り道散歩でしたが、すっかり私の大事にしていたものを思い出しました。こんな文章を書いてみたいと思える様になるぐらい童心を思い出させてくれる材木座の海に感謝です。

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