『龍と苺』と「なろう系」との“決定的な差”

せっかく漫画を読むのが好きなので、たまには具体的な作品に言及していこうと思う。好きな作品を紹介することも当然あるし、なんか論じられそうなポイントを抽出できそうな作品を選ぶこともあるだろう。今回は後者である。

『響~小説家になる方法~』で知られる柳本光晴氏の新作、『龍と苺』である。現在5巻までコミックスが発売しているようだ。小学館の漫画アプリ「サンデーうぇぶり」なら毎日無料で1話読める。

あらすじはシンプルである。破天荒かつ中二病な女子中学生が、将棋の才能を見出され、バッタバッタと猛者をなぎ倒していく話である。そう、テーマが小説から将棋に変わっただけで、基本的に「響」と構図は変わっていない。無双ものである。

それゆえ話の軸は極めて単純なのだけれども、作品のキモは「主人公の無双」にあるわけではない。ざっくりと2点、「狭い界隈でのイキリに対する正論パンチ」と、「圧倒的な才能を前に挫折していく『その他大勢』の心情」が見所である。これも「響」と同様だ。

どちらもわかりやすく共感できるポイントである。1点目の「正論パンチ」について。主人公の苺は直情的かつ非常識であり、目上の者に秒で食ってかかる性格である。響と同様、すぐ手が出る。また、響と同様、トリガーはつねに「権威ある者の理不尽」である。すなわち、圧倒的な才能をもって、既得権益に胡座をかいている輩をぶちのめしていくわけである。わかりやすい。

なろう系と異なるのは、主人公がコミュ障であり、また理念追求型の性質を持っているために、満たされていない点にある。なろう系の主人公達は穏やかな現状維持を望んでいるが、意図せずトラブルに巻き込まれ、やれやれと事を片付ける。苺や響の方は、つねに変革を求め、自らトラブルを巻き起こすわけである。

主人公の性質ゆえに、これらの作品は人間社会の閉鎖性、硬直性に対する批判としての側面も持つ。正直なところ、この批判がうまく機能しているのかどうか、私にはよくわからない。「将棋の世界に女なんて」と馬鹿にする老害たちが数多く出てくるわけであるが、誇張が強くワンパターンであり、なろう系の「嫌なヤツボコボコにしたった」的な展開と同等の浅薄なスカッと感だけが残る。

2点目の「その他大勢」の心情描写は、シンプルな構造に奥行きを与えている。主人公の心情は描かれない。ルフィやサイタマ型の、絶対審級系主人公である。さまざまな葛藤のストーリーは、その周縁で生じることになる。

この作品(あるいは「響」)における心情描写の優れている点は、「繊細さ」や「深さ」にあるのではない。ひとえに「業界の構造」のリアルさにある。将棋会の構造を明確に示しながら、そこから落伍していく者の姿を描く。

そのため、プロになれるかの瀬戸際でもがく登場人物への共感は、内在的なものというよりも、「あぁ~こんな風になっているのかぁ~そりゃ大変やわぁ~」といった理性ドリブンなものになる。これはこれで悪くないと思う。

1点目で言及した、「誇張が強くワンパターン」というのも、おそらくこうした構造重視の話づくりに由来しているのだろう。キャラクターは温度を持った人格というよりも、構造上要請される役割としての性質が強く出ている。ある種の割り切りである。

このあたりも、なろう系と近似する特徴といえるかもしれないが、やはり土台づくりがしっかりしているのは強い。「中の人」でなければ知り得ない現実に支えられているがゆえに、『龍と苺』は現実社会に対する「異議申し立て」でありうるのだ。

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