尿管結石とドライビング・ポジション

半年にわたる尿管結石との戦いに、ついに光明が見えた。結石を刺激しないドライビング・ポジションを見出したのである。

根本的な解決には至っていないじゃないか、と言われるかもしれないが、そうそう期待してはいけない。私たちはあまりに、みずからの負の感情の行き場を求めすぎる。世界はもともと非情なのだ。塵のごとき扱いを受けるなかで、どうにか生き延びる手段を見つけなければならない。

それがドライビング・ポジションである。思うに、人々はこれを軽視しすぎている。体の片方に重心をかけ、片手でハンドルを持ち、運転後に「疲れた」などと宣う。当たり前である。金ちゃん走りでマラソンしているようなものなのだから。

もともと腰痛持ちのおれは、普段からドライビング・ポジションには気を払ってきた。今乗っているマツダの車も、ドライビング・ポジションのしっくり感が気に入って購入を決めた。マツダはやたらとドライビング・ポジションをセールスポイントとして売り出しており、世間からは「車の質で勝負しろよw」などと嘲笑されているわけであるが、正しい運転姿勢を保つことの意義は計り知れない。

要するに、操作が正確になり、疲れにくくなるわけである。実際、おれは今の車に乗り換えてから、腰痛に苛まれたことはない。東京から奈良まで運転し続けたときも、腰痛の予兆すら生じなかった。まるで大迫傑のように、いいフォームで長距離を駆け抜けたわけである。

ところがである。結石がおれの緻密に設計されたドライビング・ポジションを台無しにしてしまった。操作を正確に行うためには、やはり丹田を意識できることが重要なのであるが、このためにおれは太腿の角度を少し上げ気味に設定し、あえてタメを作っていた。このタメが、結石にとってはよくなかった。

おれはこの半年で十数回、結石による痛みの発作に見舞われているが、そのなかでも特に容赦なかったのが3回ある。いっそ殺せ、というやつである。大の大人がうめきながら、数時間に渡ってのたうち回る。見ている方も地獄だろう。最近のは痛すぎて嘔吐した。痛すぎて吐く、という創作じみた経験を、まさか自分がなしうるとは思っておらず、そのときは少し誇らしい思いがした。またすぐ、痛みでどうでもよくなった。

さて、この3回のうち2回、痛みは運転中に生じた。最初はジワジワとしたものだから、どうにか運転は続けられる。家に帰って治まるかと思えば、どんどん酷くなっていく。痛みに屈して寝転がったら最後、数時間うめき続けることになる。

すなわち、ドライビング・ポジションなのである。腿を上げたことによるタメがなければ、3回のうち2回は、発作の因子を取り除くことができたはずなのだ。半年に3回と、半年に1回。この差は、大きい。死を希求するほどの痛みが発生する頻度として、この差はあまりに大きい。

当然、最初のビッグバン的発作の時点から、おれはドライビング・ポジションの見直しを図った。しかし、なかなかうまくいかないのである。従来のポジションを崩したくなかったのもあるし、結石の恐怖で長時間の運転が怖くなっていたのもある。短時間のうちに、長時間にわたって結石に耐えうるポジションを見出すのは容易ではないのだ。結果、結石に適したドライビング・ポジションを獲得するまで、およそ4ヶ月を要した。

ポイントは、やはり腿の角度だった。タメを逃せるよう、腿の角度を下げたのである。しかしそれだけでは、体が下向きになり不安定になる。フットレストで踏ん張る足がより強いタメを作ってしまい、結石を刺激しないとも限らない。そこでおれは尻の位置を下げたのである。「へ」の字だった下半身が、始点を下げ、角度も緩やかになった。これにより、タメは解消され、必要以上に踏ん張る必要もなくなった。以前よりも前掲になってしまう点が懸念点だったが、これはリクライニングを立てることで、前後のブレを軽減することに成功した。

いま、おれは希望に満ちている。結石は消えないが、悪魔的な苦痛の要因の3分の2が解消されたのである。これを見た読者諸氏も、これからはドライビング・ポジションの重要性を見直してくれることと思う。マツダに代わって、この言葉を贈ろう。

Be a driver.

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