千葉雅也「マジックミラー」考察と、考察しながら打ちのめされたワナビのぼく

東京西側放送局で、千葉雅也の「マジックミラー」について話した。

話の方向性としては、作品と社会的な文脈との関連に向いていたので、ここでは作品そのものに焦点を当てて、大きな構造や細かいポイントについて考えてみたい。

なお、内容として何か新しい観点を提示するわけではなく、ただ読解に終始しているので、「マジックミラー」を読んでいない人にとっては意味のない文章となっている。留意されたい。

「闇」の性質

「マジックミラー」において、ハッテン場は総じて「闇」として描かれている。ここでの「闇」をもう少し具体的に特徴づけるなら、「顔」と「意味」が剥奪された空間、ということになるだろう。

東中野のハッテン場をめぐる朧気な記憶のなかでは、「男たちの顔もひとつとして像を結ばない」。高円寺のハッテン場で知り合いである「ユウくん」と偶然セックスをすることになった時も、知っているはずの顔と目の前の顔とはいまいち符号せず、結局のところその同定作業は「今ここのこの興奮にとってはべつに意味がない」ものとされる。

代々木のPにおいては暗黙のサインによってのみコミュニケーション――ヤるかヤラないか、という極めて機械的な――がなされ、「言葉は使わない。使うべきではない」という形で文脈は拒絶される。

全体を通じ、ハッテン場における人間の存在様態は、「機械」や「家畜」の比喩に見られるように、欲望成就に向けて自らを最適化した装置として描かれているわけである。

闇に規定される(主体)

重要なのは、こうした闇がたんに「暗い世界」を表現しているのではなく、主人公のありようを侵食的に定めてくるものとして描かれている点である。「闇が勃起し、僕も勃起する」といった表現からも、闇が「主体」にとって規定的に働いているということは明らかではあるが、おそらく見逃してはいけないのが、闇によって規定される自己が「ハッテン場」という特異な空間においてのみ発現するようなものではない、ということだ。

闇を塗り重ねるように、主人公は日サロで皮膚を焼くのであり、運動への苦手意識を厭わずジム通いをはじめる。流行りのロン毛にカルバンクラインの香水を纏う。みずからハッテン場でウケるイメージに寄せているわけだけれども、これらの変容過程はどこかオートマティックであり、主人公の意志を超えたところで起きているような印象を受ける。ハッテン場の闇、そこで自身に浴びせられる眼差しをインストールするように、友人や家族の目に触れる姿も変わっていく。

たとえばピンサロやホテヘルといった舞台であっても、ハッテン場と似たような「暗さ」は演出しうるだろうが、こうした主体の変容や発生過程を描くことはできないだろう。金銭のやり取りを通じて一方的に快楽を享受する形態にあっては、ハッテン場のような主体の揺らぎや危機は生じない(生じうるが、それは構造からして「つねにすでに」あるようなものではない)。

「マジックミラー」において特徴的なのは、主人公の「主体」が、ハッテン場の非人称的な関係を通じ、流れに「乗せられる」ように形成されていく点である。口づけや愛撫を交互になすうちに生じる「力の非対称性」、そこから「固有の重力」によって「タチ」と「ウケ」とが「分離」していく。主体とも言えない、欲望機械が知らずその形を定めていく。千葉雅也一流の「ポモ」である。

まなざしについて

この作品においては「まなざし」が主要なテーマのひとつになっており、主人公の変容をドライブする動因としてもこれは機能している。まなざすものにはいくつかのバリエーションがあり、ゲイバーに設置された監視カメラと、そのもう一方の固く閉じられた目、マジックミラーの向こう側に想定される目に、ハッテン場で向けられる、欲望を尺度に他人の肉体を値踏みする傲慢な目、これらが象徴的なものとしては挙げられる。その他、ゲイバーの店子やユウくんの目もそうだろう。

「傲慢なまなざし」は相手を値踏みする目であり、対象となる肉体からどれだけ快楽を引き出せるかを算定するものだ。ハッテン場において基本となる態度として位置づけられていて、ハッテン場デビューで主人公はこの目に切り捨てられ、やがて適応するにつれ自らもこの目を他の肉体に向けることになる。

マジックミラーの向こう側に想定される目は、基本的にはこの「傲慢なまなざし」が内面化され、さらに投影されたものだと考えていいだろう。欲望の対象を審査する目にみずからを適合させるように、主人公は肉体を変容させる。それを駆り立てるのは、自らのうちにインストールされた他者のまなざしである。
(なお、配信のあと、中田がマジックミラーの構造と「読者と作者」の関係性との相似に言及していた。テクスト外との関係を捉えるうえで極めて示唆的であるが、ここでは作品内在的に読むことを意図しているため、この視点については彼の論を待ちたい)

監視カメラは通常、均質な時間を記録する媒体としての機能を果たすはずである。けれどもバーのママの話では、「オバケ」を映したりするらしい。均質な時間に還元されない何者かの存在が示唆される。

このカメラの隣に、「力を入れてつぶっているもう一方の目」が想定される。その直後にユウくんを見たときに「片目だけの視野みたいに、半分に暗がりがかぶさっている感じがする」「それは僕らをただ一度結びつけた高円寺の闇だ」とあるように、「もう一方の目」は明確な記録としては残ることのない、暗い欲望の世界をめぐる記憶とリンクしているようである。

この目が「力をいれて」閉じられていることと、ことさらに主人公が「最高の体」を「覚えておく」と繰り返していることとは、おそらく強く連関している。その闇をめぐる記憶は保持されなければならない。その理由をめぐっては、配信内で考察している。

宙づりの時間

しかし、「マジックミラー」という作品を「光の当たらない闇の世界の話」という構図からのみ捉えることはできない。この作品が優れているのは、おそらくハッテン場における人間の存在様態を精妙に描いている点だけではなくて、闇に規定されていく過程で立ち現れた「宙づりの時間」が表現されている点にもあるだろう。

ハッテン場で「ユウくん」と一回目のセックスを終え、「明るい喫煙所」でぼんやりと再会を懐かしむシーン。肉欲の対象としてではない顔が立ち現れているのだけれども、相手は自分のことを、どうやらはっきりとは覚えていない。この人は確かに知っている「あの」人なんだけど、明確な名前や記憶とは結びつかない。非人称的な肉欲の対象ではないし、かといって「人格」であるわけでもない。漠然とした雰囲気としての「あの」だけがある。ふわふわしている。

それでも、二人でタバコを吸っている雰囲気に乗せられてなのか、ユウくんは自分の肩に頭を乗せてくる。もともとのロールと異なる立ち回りを求められて困惑するけれども、タチとして立ち回ったことの「責任」が後から追ってきて、もう一度戻ってセックスをする。当然、ここでのセックスはそれまでの交わりとは意味が違っている。というか、何かしらの意味があるセックスになっている。「一時だけ、恋人みたいな気持ちに」なるのである。

その後、建物を出た入り口で会話するシーンにおいては、この作品で唯一「登場人物の身の上話」が少しだけ展開される。その人が誰であるかを物語るライフストーリーである。

語られるのはノンケとの非対称な恋であって、どう考えても救いはない。ゴミの収集車が音を立てているのが象徴的である。明るい世界にも暗い世界にも属さない歴史の屑として、ユウくんの個人史は存在する。けれどもそれは「笑い皺」とともに、ユウくんの「あの」を象るはずのものだ。

……こういう宙づりの感覚や、隙間の感じは、たとえば「余白」やら「差延」やら、哲学的概念として把握していたとしても、創作上の表現として落とし込むのは難しい。というか、不可能だとすら思っていた。自分でやろうとしても、どうしても打算的になってしまうし、途中で脱線してしまうし、そもそも適切な描き方ができない。のだけれども、しれっと千葉雅也がやってのけるものだから、ぼくは結構打ちのめされているわけである。

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