タコピーとは私たちのことである――Web漫画『タコピーの原罪』について
※ネタバレ含
少年ジャンプ+で連載中の『タコピーの原罪』(著:タイザン5)が面白い。
ハッピー星から「宇宙にハッピーを広めるため」にやってきたタコピーが、学校で過酷なイジメに遭っている小4のしずかちゃんを救うため、ドラえもん的「ハッピー道具」を用いて悪戦苦闘する物語である。
この作品において特徴的なのは、しずかちゃんを救うはずのハッピー道具が、彼女の現状を改善することには一切寄与していない点である。出会った当初から、タコピーは空を飛ぶ道具などでしずかちゃんを喜ばそうとするけれども、彼女は「どうせ何も変わらない」とまったく関心を示さない。
この諦観は、社会構造そのものに対する諦観である。たとえば「普通の家庭」に暮らしているのび太くんにとって、悩みの種は「学校での勉強」や「ジャイアンによる暴力」であり、「個人的な努力」によって対処可能なものである。その努力を代行するのがドラえもんのひみつ道具というわけだ。
一方で、タコピーの原罪のヒロイン・しずかちゃんは、両親が離婚(別居?)しており母親と二人暮らしである。母は水商売をしており、ネグレクトの傾向が描かれている。しずかちゃんをイジメのターゲットとするまりなちゃんの家庭も崩壊しており、父親が風俗通い(相手はしずかちゃんの母)やDVを繰り返し、母親は病んで家事を放棄し、まりなちゃんに「話を聞いてくれるよね」「ママの味方よね」と依存する。
こうした描写において特徴的なのが、「大人の顔が描かれない」という点である。表情が見えない大人は、子どもにとって介入不可能な領域にいる存在であり、ほとんど自然災害のようなものである。大人たちの置かれた環境、それによる人間関係の歪みは、「どうすることもできない」ものとして描かれる。
この「どうしようもなさ」に由来するヒロインの諦念のうちには、道具や能力、スキルによって万事解決となる「ご都合主義的ストーリー」に対する一種のアンチテーゼを読み取ることもできるだろう。
無条件にストーリーを好転させる魔法は存在しない。そんなことは誰でも知っているし、もともと、私たちが現実で「どこにも行けない」からこそ、創作において「ここではないどこか」に通ずる魔法が与えられ、「万事解決」となるストーリーが求められていたわけである。
タコピーの原罪が優れているのは、「どこにもいけない現実」を「リアル」として描くのではなく、「万事解決型」の舞台を通じて「どこにもいけなさ」を強調している点にある。
この救いのなさをさらに強めているのが、ハッピー道具でヒロインを救うはずのタコピーの無能さである。おそらくネガティブな感情を知らないハッピー星人たるタコピーは、「イジメ」という概念そのものを知らず、見当違いな手助けを繰り返す。
イジメの加害者であるまりなちゃんの悪意に気づかず、イジメを単なる喧嘩と解し、しずかちゃんに「仲なおりリボン」なる道具を手渡すところなど、その姿勢は読者に「イジメを見て見ぬ振りする教師」を想起させる。タコピーの鈍感さを通じて描かれるのは、状況に即さぬポジティブさや根性論の暴力性であると言ってよい。個人の処理能力を超えた状況を、個人で処理しうるものの枠内で捉えること、これによって「どうしようもない状況」は一層どうしようもなくなってしまう。
ヒロインのしずかちゃんは、飼い犬のチャッピーを唯一の心の支えとしているが、まりなちゃんの計略によりチャッピーが保健所送りとなり、第一話で自殺してしまう。タコピーは写真を撮った時点に時間を巻き戻せるハッピーカメラを使い、しずかちゃんの自殺ルートを回避しようとするが、何度やってもチャッピーが保健所送りになる未来を変えることができない。
100回以上リセットしてもなお、チャッピーが保健所送りになり、しずかちゃんは誰もいない森でまりなちゃんに詰め寄られる。その状況を見て、タコピーはとうとう「このままじゃなにも変わらない」「勇気を出さなきゃ」とと気づき、まりなちゃんに向かって飛び出していく。アツい覚醒シーンである。
ところが、タコピーのもっていたハッピーカメラがまりなちゃんの頭を直撃し、まりなちゃんはそのまま即死してしまう。タコピーはすぐに時間を戻そうとするが、衝撃でカメラが壊れてしまったのか作動しない。
愕然とするタコピーに対し、しずかちゃんは「タコピーすごい」と賞賛を繰り返す。キラキラした背景で、それまでの暗い表情とは対象的な明るい表情のコマが連続する。「まりなちゃんいなくなればいいのに」という思いを実現してくれたタコピーの所業を、「まるで魔法みたい」と言ってのける。キレキレである。
タコピーは出会った当初の「ハッピー道具でしずかちゃんを笑顔にする」という約束を、物理的殺人で達成する。エグい。
もともと、ヒロインの願いは「不都合な他者の排除」であるけれども、これは人間がその胸に抱きうる否定性のうち、もっとも究極的かつ根源的なものである。「あいつさえいなければ」を迂回させる魔法(あるいは道徳的詐術)はあったとしても、この感情の根を取り去る手段は存在しない。
おそらく考えるべきは、しずかちゃんの「まりなちゃんいなくなればいいのに」が、極めて「刺さる」フレーズになっていることである。周りの皆に虐げられるなか、手を差し伸べてきた「救世主」は見当違いな振る舞いを繰り返す。これほど明確な原因があるのに、それを取り除く術はない。このもどかしさが要請するのが、法も道徳もこの世の摂理も超越した、「他者の存在の抹消」である。
タコピーの原罪において、まりなちゃんの殺人が極点として描かれることの意義は、もっとも直接的な「存在の抹消」以外の手段が「たんなる迂回」として映し出される点にある。慰めも同情も善意も、超能力もひみつ道具も、一切は救いにならない。かつて私たちに大きなショックを与えた「家なき子」の「同情するなら金をくれ」は、まだマシだったのかもしれない。金があればとりあえず解決になるのだ。ここに至って、私たちは「敵対者の消滅」を願うようになってしまった――あたかもそれが、「アカウント」ほどの重みしかもっていないかのように。
そう、突飛な言い方になるが、タコピーは私たちの似姿である。事なかれ主義で現実を覆い隠し、貧しい想像力でもって安易に他者の消滅を願う――そのような意識の表象として、タコピーは描かれていると言える。
タコピーは現在第5話まで公開されている。もう少し書きたい内容もあるが、それは今後の展開を待ってからにしよう。短期連載とのことなので、次は完結してからになるかもしれない。
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