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「遺す」という行為

生命のあるものは必ず、物質的なものはなくなり、最終的に土に還る。

これは誰も避けることのない事実。

僕は20代の頃、同年代の仲間たちの「死」を見届けて来た。

そこで思った事。

その「物体」自体は無くなっても、その「物体」が作ったもの、考えていた事というのは、伝承する人がいれば、「遺る」のだという事。

僕が失った友はミュージシャンだった。

彼らが遺していった「作品」はある意味「永遠」だ。


「音楽」を創る喜びを知り、それを日常的に行っている自分は非常に恵まれていると思っている。

それとともに、自分の存在を何かしらの「かたち」として遺しておかないと思っている。

それが、「音源」であり、こういった「テキストデータ」だと思っている。

でも、音楽を「創る」という行為は、「遺す」ということが目的ではない。

結果的に「いま」創りたいと思って創っているモノが遺ればいい。

                        (2008年01月26日)


コロナ禍において惜しくも亡くなった恩人、友人のミュージシャンを想うと13年前に呟いていたことを思い出す。


(写真は2008年に作曲した時の「Janeiro」のメモ)

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