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乳神様、あるいは菩薩器官

 郷里には乳神ちがみ様がいて、祭りでは「おっぱいまんじゅう」を食べる。


「ヤダ〜! 買っちぇ、買っちぇ〜!!」

 暴れる二歳児を置き去りにしてレジへ。夕方の大型スーパーは戦場、通路に寝転んでいる幼児は遺体袋ボディバッグ

 背中に声が飛ぶ。

「母親だろ、なんとかしろ」

 ふり向くと、精子の提供者がこちらを見ている。怒りが言葉を後押しする。

「父親でしょ、なんとかして」

 セルフレジに並ぶ。帰れば待ったなしのお風呂&夕飯ゲーが待っている。

「おいっ!」肩をつかまれる。振り払う。「イテっ」左手を押さえ、大袈裟にうめく姿。子どもの声がまだ響いている。カートを押しやり、エコバッグと財布を渡す。

「セルフレジ、苦手だったよね」

 泣く子を抱きあげて戻ると、乱雑に詰めたバッグと、おつりでパンパンの財布が待っている。財布が膨らむのは死ぬほどキライ。


「カットバン、どこにあんだよ?」

 子どもとお風呂に入っていたら、声が飛んできた。浴室のドアを開いて叫び返す。

「いつものところにあるでしょ」

 大きいの小さいの、アヒルのおもちゃで湯船はいっぱい。ガーちゃんたちが揺れる。子どもはキャッキャとはしゃぐ。

 バンッとドアが開く。子どもがビクッとし、お湯を飲んでしまう。ぐずり出す。

「これじゃないパワーパッド、治りの早い奴」

「知らない。全部使ったんじゃないの」

「チェッ、そのくらい買っといてくれよ。薬局あったじゃん、スーパーの隣に」

「あなたが使うんだから、あなたが管理して」

なにさ、トゲが刺さったくらいで。子どもを膝に乗せて揺らす。すべらかで愛しい身体の行く末が目の前にある。

「治らなくてもいいんだな!」怒気がドアを閉める。子どもがまた泣き出す。


 先週行った初めてのキャンプで、薪を割った時にトゲが刺さったとうるさい。左手親指の付け根。朽ちた木の欠片かけらは砕け、想像以上に深く刺さっていた。痛え、痛えと騒ぐのを無視して、炙った針で傷口を広げ欠片をとりのぞく。生まれが東北の山でこの程度の怪我はしょっちゅうだった。薪割りすんなら、もう片方に手袋すんのジョーシキだろ、という言葉を呑み込む。森の中は懐かしい。息子が歩けるようになるまで待ってのオートキャンプ。パチパチ爆はぜる火の匂いで泣きそうになる。なんで都会に住んでいるんだろ、と思うくらい野山が好き。


 手を使うなとは言えないけれど、それにしても治りが悪い。外回りの仕事で、雨の日にカバンと傘を両手に持つのがつらいとこぼしていた。子どもが寝ついてから消毒を手伝い、傷を診る。塞がる気配がない。

「よせよ」というのを制して鼻を近づける。

「腐ったら切り落とすことになるかもしれないよ」

 親指の付け根から、ピンクの突起がのぞいている。カワイイ。乳首みたい! 

 腐敗臭はしていないので、ペロリと舐める。
「やめろよ! バイキン入るだろ!」

「だって、ピンクで、ちくびみたいだから」

「ヘンタイ!」
「ちくび舐められるの好きでしょ」

「そこじゃないから」

「舐めてあげよっかぁ」

 こいつのことは嫌いじゃない。でも赤ん坊が生まれて女は母になるのに、こいつはいつまで経っても男だ。そのまま押し倒す。半分剥がしたカットバンが下敷きになる。Tシャツをまくり乳首を探し、舌を這わせる。

「お乳でないね」

「出るかよ!」

 子どもはこの男とじゃ寝つかない。添い乳のせいだとあいつは言うけど、そうかな。いつもならこのまま情交セックスするのに、左手ばかり気にしている。じれったくて、もう一度見え隠れする新しいちくびを舐めようとしたら、マジでキレられた。


 息子と朝乳あさぢをしていたら、あいつが戻ってきた。仕事は? 「キズパワーパッド」の箱を手に怒ったような顔で洗面台に行く。蛇口を開ける音。ジャウア。洗っている、執拗に、何度も、何度も。ジャウウ。子どもを抱いてリビングに行く。

「止まらないんだ……」

 呆然とした顔。消毒薬を取り出し、付け根を見る。ピンクの突起が昨日より大きくなっている。傷口から甘い匂い。処置した後、鼻を寄せる。嫌がるのを押さえる。息子もわかった。いつもは寄らない男の元に自分から近づいていく。

「これお乳だよ。同じ匂いがする。大丈夫、死にはしないから。私なんて一日何リットル出してるかわかんない」

 あいつは今まで見せたことのない表情をした。子どもが左手に顔を寄せる。子どもの口が親指の付け根を吸う。知っている、あの感触を。赤子の口が吸い付く時のえも言われぬ快感を。あいつは振り払わなかった。ああ、と言う声が漏れる。息子が口を動かす。クチュクチュと命を吸い取っている。溶ける。あなたは溶ける。自分の一部で他の生き物を養う快感を知る。忠告する。

「無理に外さない方がいいよ。あの子の歯で噛まれると死ぬほど痛いから」

 あいつの体液で育つ我が子を、前にも増して愛しく思える。腰が抜けたように、リビングの椅子に寄りかかるあいつの、ネクタイを緩めボタンを外す。もてあそぶべき乳首はあと二つある。右と左と。しょっぱい。

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