見出し画像

改稿・ミスタアダンソン


「ミスタアダンソン、おはよう」
 MacBookの影から現れた小さな姿に、僕はあくびをしながら声をかける。昨晩のままになっているビールの缶を流しですすぐ。
「自分の飲んだビールの缶くらい、自分ですすぐのよ」
 キミの快活な、けれども少しホイップする声が響く。
ホイップ、ホイップス、ホイップト。君はいない。
 洗面台で顔を洗い、鏡を見ながら手櫛で髪をなでつける。
「すべての女が」とまた君の声が響く。
「寝癖が好きだなんて思わないでね」
 寝癖の僕がパジャマのままでいると、君はちょっと不機嫌だった。
どうして? 君と僕以外誰もいないのに。
 今ならわかる。君が誰のことを気にしていたかわかる。

 歯ブラシ立ての後ろから小さな黒い影が飛び出してくる。ミスタそれともミズアダンソン? 彼あるいは彼女はシンクの中も平気で歩く。彼らは登れる。もし僕が水を流しさえしなければ……。
 あの時、君は怒ったね。僕がうっかりミスタアダンソンを流してしまった、と言った時。
「あなたって人は、ホントウに無神経なんだから!」
 ホントウ、のところが強く響いて僕の心はチクンと痛んだ。
ホイップ、ホイップス、ホイップト。
なんだい、たかが虫一匹じゃないか。むかし友だちにゴキブリを弁当に入れられて以来、どうしても苦手な僕に代わって勇敢に戦ってくれる君が、どうしてそんなに怒るの?
 納得できなくて、僕が黙ったら君は軽く僕の肩に触れた。
「だってアダンソン氏はゴキブリの子どもを食べてくれるのよ。あなたがアダンソン一族を一匹奈落に落とすたびに、ゴキブリの子どもを十匹生かしてるってこと」
わかる? と言いたげに君は僕を見る。小首を少しかしげる君のクセ。
ホイップ、ホイップス、ホイップト。君はいない。

うまくいっていたじゃないか、僕たちは! 君のことも僕のことも、そして世界のことも大切にして生きていこうと誓った。ミスタ&ミズアダンソンのいる世界。君は一緒に住みたくないと言う。僕は一生共にいたいと言う。両方大切にするってどういうこと? 答えを出せず、出せないままに漂う時間を僕たちは「幸せ」と呼んだね。
ホイップ、ホイップス、ホイップト。君はいない。

南極の氷が溶けてしまう。シロクマが可哀想だと泣きじゃくる君をどうやって慰めたらいいのかわからなくて。僕は子牛と引き離された母牛が乳腺炎を起こしながら出している牛乳で出来たアイスクリームと、児童労働を強いられている子どもたちが収穫した豆を安く買い叩いてその上に添加物をたっぷり加えたコーヒーをコンビニで買ってくる。君は夜の海でオキアミを探す人のような目つきで僕を見る。僕はオキアミになってでも君に見つけて欲しかったのに。ミスタアダンソンにも遠く及ばない僕。
ホイップ、ホイップス、ホイップト。君はいない。

 夜が来る。僕は好きなだけ音楽を流し、好きなだけ映画を見る。君の前で見ることができなかった馬鹿馬鹿しい映画を。ビールの缶が床に溜まる。一本は倒れて転がっている。「きっと、うまくいく」と映画の中で男が歌う。僕は自由だと叫んでみる。君はいない。そのままベッドに転がる。ホイップ、ホイップス、ホイップト。君はいない。ベッドは壁に押しつけてある。手を伸ばせばザラザラした感触、君が僕のヒゲのようだと撫でた。伸ばした指の先にアダンソン氏がいた。今ならわかる。僕らが誰に見られていたかわかる。僕はアダンソン氏に手を伸ばす。逃れようと飛ぶ先を見越す。僕の手がお椀のようにアダンソン氏にかぶさる。指の腹に軽くてくすぐったい生き物の感触。僕は手を止める。僕はどうするだろう。君をどうするだろう。僕は力を込めるのか、手を開くのか。消し忘れたブルーライトが天井を照らす。
ホイップ、ホイップス、ホイップト。君はいない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?