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読書メモ:レンマ学

懇意にしているお坊さんのおすすめで読みました。
「元来書が持っている深さや高さが失われるようなコモディティ化した本づくりは嫌だ。噛めなくても良い、噛みにくい本をつくりたい」と著者 中沢新一氏がラジオで語っていたが、まさにそれ。噛みついてみたが、なかなか噛めない本だった。だけど、噛みごたえのある、旨みたっぷりの本だった。まだまだ今後も噛んでいかないと消化には時間がかかりそう。

本書は「知性」のあり方に関して、西欧近代科学で重視されてきた因果律に基づく「ロゴス的知性」に対する、東洋で語られてきたすべてのものが共時的に相即相入し縁起的に作動する「レンマ的知性」を詳説するとともに、レンマ的知性に基づく、数論や言語論を展開。そして「レンマ学」の確立を提唱する。

このレンマ的知性は那智の山中で粘菌の研究を続けていたかの南方熊楠が、原生生物である粘菌が見せる「知性」と、大乗仏教の経典「華厳経」に見られる一即多、多即一という世界の見方、まなざしが西欧が育んできた科学の限界を越える(あるいは包含する)理性であると見出したことに端を発する。

かの西田哲学ではロゴス(論理)に対するピュシス(自然)が語られていたが、長年「野生」を論じてきた著者はこの「レンマ」を用いて、知を捉えなおそうと試みている。

著者はAIがいくら進化しようとも、あくまでロゴス的知性を進化させるだけであり、さらに深層にあるレンマ的知性を考慮しない限り、意識や生命とはなりえないという。
過去から未来へ、因から果へと通時的にことが起こっていくという世界の捉え方ではなく、「すべての物体は宇宙の中に起こるすべてのことの影響を感ずる」という共時的なパースペクティブに立って世界を捉え直すことを本書では一貫して論じている。
ずっとロゴス的思考をトレーニングされてきている我々にはそれを感得するのに時間と要する。そもそもロゴス的な手法である「文章」で書かれているもので、レンマを理解するという矛盾も手伝って、なかなかにハードだ。

この「レンマ」という言葉では語られなくとも、近頃は人や組織のあり方が旧来の機械論的なものから生命論的なものへのシフトがあちこちで語られ、実践され始めている。旧来の上意下達の指示命令系統で構成された中央集権的な組織ではなく、個々が自律分散的に意思決定、行動をするティール組織のあり方は前述の南方熊楠が没頭した「粘菌」のふるまいそのものだ。

これからの生き方や組織のあり方についてもロゴス的に頭で考えるのではなく、レンマ的知性に踏み込んで捉え直していきたい。
さもなくば我々人類はハイデガーの言う「最終的な故郷喪失」へと着実に歩を進めてしまうのではないか。

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