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自分でコーヒーを淹れる

昔、喫茶店でバイトをしていたとき、カウンター席に座るいろいろな常連さんに、話の流れで「家でコーヒー淹れたりしないんですか?」と聞いたことがある。「喫茶店の常連」なので、そりゃもちろん、「人に淹れてもらうからおいしいんや」と返ってくる。でもたとえば、嫌いな人に文句を言われながら淹れてもらったコーヒーなら、どういう味がするだろうか。

「人に淹れてもらったコーヒー」という言葉は、意外と根深く、味わい深い。人間関係の味、経済の味、母性の味、社会の味。コーヒーの味の奥に、もっといろいろな味の気配を感じる。

そういう風景に身を置いた時間があるためか、「人に淹れてもらったコーヒー」と「自分で淹れたコーヒー」は、同じハカリで比べられないものだと思っている。つまり、味付けの異なる料理。せっかくなので、ごちゃ混ぜにせず、別の皿に盛る。小皿を用意して、そのときの自分に合わせて、それぞれを好きな量だけ取り分けると愉しい。

というのは理想の話で、現実としては、自分に合わせるというよりも、生活や仕事や環境によって、ある程度、取り分けられる量が決まってくるものなのかもしれません。ちょっと手間だけど、家計的には少し楽になるからという理由で、「自分で淹れる」ことにしている人も少なくないはず。

生活におけるさまざまな選択は、けっして前向きで気持ちのよい理由ばかりではなく、時には仕方なくということも混じります。でも、たとえ入り口がそうだとしても、その流れの中で、何か自分なりに嬉しいことを掬い取れたなら、これはこれで心地のよい味わいだなあと思ったりします。そのためにはやっぱり、無理をしないことです。

何が言いたいかといいますと、『台所珈琲の手びき』は、寝転がって読むくらいでちょうどいいということです。




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