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#迷い #選択 #決断

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迷える子羊。
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#気づき

外堀から埋める、みたいな考え方が好き

「幸せを感じる」とか「自分で自分の機嫌を取る」とか、その考え方自体はシンプルなのだけれど、いざ実践したり実感するとなるとそう簡単にはいかない。 考え方や思考の癖を変えるのは非常に難易度が高い。 ただ、僕らの悩みのほとんども、実際のところ、考え方や思考の癖によるものだったりする。 「じゃあ、考え方を変えよう」 と口では言えても、いきなり変えられるわけでもないし、変わるわけでもない。それができていたら、たいていの悩みはすでに解決しているはずだ。 例えば、ネガティブな人が

保守的でいるために、挑戦し続ける

「10年後、自分は何を考えているんだろう」 たまにふと考えてみたりするけれど、いつも何も思い浮かばない。 ただ、自分に残された時間が少なくなればなるほど「何かを作りたい」という気持ちよりも、「何かを残したい」という気持ちの方が強くなるのかな、なんて漠然と思っている。 こうして文章を書くことも、日々働くことも、「作りたい」、「生み出したい」という気持ちが原動力になっている。 だから、自分にできるかどうかよりも、やりたいかどうかを大切にしている。 それは、自分に残された

可能性は無限大かもしれないけれど

「可能性は無限だから」という言葉よりも、「限界までやってみよう」という言葉の方が好きだ。 無限にある可能性を信じて、「誰でも何者かになれる」と信じて、手当たり次第何でも挑戦してみたらどうなるのだろうか。 体力も気力も時間も、限りがある。 たとえ可能性は無限大だったとしても、体力も気力も時間も限られているのなら、その“限り”の中でいかに自分の人生を全うするか、真面目に考える必要がある。 限りがあるからこそ、肩の力は抜いていたい。 無理して、背伸びして、そんな自分を我慢

手軽になって失ったもの

パソコンでnoteの文章を読んでいてハッとした。 久しぶりに、じっくり文章を読んでいる気がする 普段、他のクリエイターさんの文章を読む時はスマホを使うことがほとんどだから気づかなかったけれど、最近自分の中で「読む」がただの消費活動になっていた。 何となくさっと読んで、読んだ気になって、気に入ればスキをつける。 その一連の作業、消費活動を、親指だけで惰性で行っていく。 元々それがしたくて文章を読んでいるわけではないのに。 - 様々なモノ・コトが手軽になった。 食

迷った末の意思決定は、迷わなかった時より強い

日々色んな選択と決断を繰り返している。迷うことは絶えない。 できることなら迷わない方が良い、迷わず選択できるならそれが良いと思っていた。 けれど、案外迷うことも悪くないのかもしれない。 振り返ってみると、過去に迷った末の決断が今の自分を形作っている。 一切の迷いなく決めたことももちろんあったけれど、迷わなかった選択よりも、迷って迷って迷い抜いた選択はその後、力強い意思決定になっている。 そりゃそうか。あれだけ迷ったんだから。 どんな選択をしても、その選択を遅かれ早

大切なものは、失ったとき、より大切になる

大切なものは、失ってはじめて気づく 文章を書くようになって、この言葉と向き合うことが増えた。 実際、自分のnoteにも度々登場しているフレーズだと思う。 大切なものが「大切なものだった」と、いつも失ってからしか気づけなかった。 それは、かなりの苦しみを伴うことで、手元に大切なものを残し続けるには、失い続けることを意味していた。 「得る」とは「失う」であり、「決める」とは「諦める」だと思う。 この先の人生もきっと、得る機会より失う機会の方が多い。 「得る」より「失う

適度なストレスがないと、かえってストレス

つくづく面倒な生き物だ、人間は。いや、自分だけかもしれない。 心の余裕が欲しくて、物理的な余裕が欲しくて、そうやって選んだ生き方だったはずなのに、どうして物足りないのだろうか。 忙しなさ過ぎると自分を削ってしまうけど、あまりにも余裕があると、それはそれでかえって満たされない。 何もせず過ごす日曜日と、何かしら予定が入っている日曜日。 前者の方が充実するような、そういう感覚。 例えば、責任があると期待やプレッシャーに押しつぶされそうになるけれど、その分やり切った時は何

他者思いだからこそ、自分勝手に生きることに全振りしてみる

「幸せ」は誰のものなのだろうか。 『他人の幸せが自分の幸せに乗り移ってしまうこと』についても考えております… (みをほさん) 他人の幸せに喜びを感じられることは、人生を豊かにする一つの要素だと思う。 ただ、他人の幸せでしか自分の幸せを実感できないのは、諸刃の剣のように感じる。 大ざっぱに言ってしまえば、「他人の幸せへの依存」かもしれない。 「他人の期待」をテーマに、以前似たような文章を書いた。 幸せや期待、利他や依存について考えるとき、いつも思うことがある。

手に入れるよりも、手放してみる

手に入れようとする時より、手放す時の方が勇気がいる。 手に入れた時より手放した時の方が、心が軽くなる。 手に入れたものより手放した時に残ったものの方が、大切にしたくなる。 手に入れた時より手放した時の方が、何者かになれる気がする。 - 手に入れようとしてうまくいかないなら、手放してみる。 自由になりたい。 自分を不自由にさせているものを手放してみる。 成長したい。 「成長したい」という欲を手放してみる。「楽しみたい」と思ってみる。 何者かになりたい。 一

何かを始めるのに、遅すぎるなんてことはない

さすがに、まだ年末を感じるタイミングではないけれど、気づけば今年も残すところ三ヶ月半。 「今年もあっという間だったな」 と、年齢を重ねる度にそのはやさを実感している。 あまり考えたくないけれど、年始から貯金していれば今頃...とか、年始からダイエットしていれば今頃...なんて、「〇〇していれば...」と不意に考えてしまったりする。 曲がりなりにも二十数年生きてきて、何かを始めるのに遅いなんてことはない、とつくづく思う。 「今更始めるなんて遅いよな」 「今からやっても

得たから感動したんじゃない、喪失したから感動した

名越康文さん(@nakoshiyasufumi)さんが、以前こんなツイートをされていた。 はじめてこのツイートを見た時は、何となく「なるほど」と思ったくらいだったけれど、先日ゲーム実況で感動した際に改めて思い出した。 確かに、感動は喪失によるものかもしれない。 映画も本もゲーム実況も、ストーリーには必ず終わりがある。 ドラマチックな展開、作品から受け取るメッセージ以上に、ずっと触れていたストーリーが終わる、そのストーリーに触れていた自分が一旦いなくなってしまう、そうい

何かが始まると、何かが終わる

「始まり」は「終わり」なんだよな、と夏の終わりだからか、やけに考えてしまう。 社会人の始まりは「子ども」の終わりな気がするし、結婚生活の始まりは独身生活の終わりでもある。 noteで文章を書き始めると、“文章を書いていなかった自分”がそこで終わってしまう。 名作映画も見始めてしまえば、それを知らなかった自分が終わってしまう。 「記憶を消して、もう一度観たい」なんて表現があるけれど、名作や良いものに触れると、本当にそう感じる。 あれをまだ知らなかった自分、知らずに初め