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#書く

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2021年12月の記事一覧

我慢する前に、書くようになってた

いわゆる「我慢」とはあまり縁がないと思っていた。 決して、欲深い人間というわけでもなく、自分の欲求に従順というわけでもない。 ただ、何かを我慢するという感覚はそれほど持っていなく、そういった意味では、自分自身やその心を自らの管理下でうまくコントロールできていた方なのかもしれない。 我慢していたことを強いて挙げるなら、「自分の気持ちを表に出すこと」だ。 「強いて挙げるなら」と強がってみているけれど、皮肉なもので、この強がりがまさに自らの我慢を物語っている。 自分の気持

誰かにとっての「ちょうど良い」でありたい

自分の書く文章に寄せられるコメントに対しては、無条件で嬉しさとありがたさを感じるのだけれど、その中でも特に嬉しいコメントがあった。 Eileen_あやの さん おがたのよはくさんの文章、優しくてあたたかくてちょうど良い温度のお湯のような心地良さがあって好きです(失礼な表現であればすみません💦)。 「ちょうど良い温度のお湯のような心地良さ」 「僕の書く文章ってこうなんだよね」と今までうまく表現できなかったものが、一言でうまくまとめられていて、気持ちが良かった。 何よりも

余裕のある時に書く文章って、薄っぺらいんだよな

「丹精込めて書いた文章ほど伸びない」なんて感覚は、何も文章を書くことに限った話ではない。 かけた労力や時間に比例して、成果の質が高まるわけではないのだけれど、「余裕の有無」に注目してみたい。 例えば、心の余裕。 何かに追い込まれていたり、心に余裕を持てないほどの衝撃的な体験をした時ほど、案外頭の中にあるありのままを書けたり、すらすら書けたりする。 時間の余裕がない時も同様のことが言えるかもしれない。 「やばい、時間がない」 というのは、ある意味心の余裕にも関わるの

「書く」に飽きたんじゃない、「自分のために書く」に飽きたんだ

ここ1ヶ月ほど、「書くこと」に全くが身が入らない。 どこか浮ついていて、書き切った後の達成感、書いている途中の徐々に高揚していく感覚、言語化できた時の安堵感、それらを感じられない。 自分のために書くことが誰かのためになると信じているし、それを原動力に書き続けているけれど、最近は、誰かのために書きたい衝動を我慢している気がする。 「誰かのために書く、それは自分のためになる」 という感覚を欲している。この感覚が「間違っていない」と確かめてみたくなっている。 前に、こんな

100のスキより、たった一人の、生の「好きです」が嬉しい

たとえリアクションがなくても、誰か一人に届くと信じて書いているけれど、「誰かに届け」と願うより「この人に届いたのか」と分かる方が嬉しい。 自分の言葉なんて、自分の伝えたいメッセージなんて、自分が言葉に乗せた思いなんて、きっと十分には届かない、そんな気がしていた。 Web上だけで発信していると、これといった手触りや実感がない。 フォローバック目的のフォローも、自分の記事へ誘導するための下心の見えるスキも、本当にスキを伝えたくて押されたスキも、どれも無感情に「通知」として流

たとえリアクションがなくても、誰かに届くと信じて書いてる

コメントをもらったり、スキがついたりしたら嬉しい。 その数が多ければ多いほど、比例して嬉しさも増していく。 どうして嬉しいのだろう、自分の書いた文章が確実に誰かに届いたと分かるからだろうか。 けれど、実際は、読んでも何もリアクションしない人がほとんどだと思っている。自分の知らないどこかで、自分の書く文章が消費され、自分も知らない何かを感じているのだろう。 時には不快にさせてしまうこともあるだろうし、ほんの少し背中に温もりを感じてもらえる時もあるだろう。ただ、ほとんどの

心に余裕がないと良い文章は書けない、のだろうか?

こう見えて、毎月末にnoteの振り返りをしているのだけど、11月の数値や記事に対するリアクションが面白かった。 振り返りをする時はいつも、 ・先月の数値との比較(ビュー、コメント、スキ、フォロワー) ・良かったこと ・改善点 これらについてざっくり考えている。 11月は後半から一気に忙しくなったのだが、忙しさに比例するように、公開した記事へのリアクションが悪くなっていた。 それもそのはず。 明らかに文章と向き合う時間(=自分と向き合う時間)が減ったし、そもそも一日