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#アラサー #20代

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#エッセイ

儚くない、春。

今年に入ってから日記を書くようになった。肩の力を抜いて書いた文章の頼りなさというか、とても自分の文章とは思えないくらい知性の欠片もなくて、たまに見返しては一人でニヤニヤしている。 〇〇が美味しかったとか、××にちょっと苛立ちを覚えたとか、△△さんのあの時のあの発言にモヤモヤしたとか、「日記」と表現するのも躊躇われるくらい、本当に何も考えず言葉を並べてみている。 こうして文章を書くときはやはり肩と指先に力が入ってしまう。いくらありのままを表現しようと思っても、ちょっとカッコ

いつか止む雨なら、傘ではなく雨宿りを

季節の変わり目に誘われるように毎度文章を書いていたつもりだったけれど、今年の梅雨には不意打ちを喰らってしまった。すっかり油断していた。 じめっとした日々に塗り重ねられる名前のつけ難い感情を、言葉にして、誰にも配慮せず好き勝手に表現して、ネットの海に放り投げてやろうと思っていたのに、いつの間にか夏。 少しでも梅雨の時期を前向きに過ごそうと、奮発して雨用のレザーブーツを新調してみたりしたけれど、晴れの日に試し履きしたっきり出番はなかった。 そういえば去年も、少しでも雨の日を

暇つぶしみたいだった日々が、今さら愛おしい

12月26日みたいな、特に記録してもいない記憶とか、高校時代の毎日、大学1年生の秋から大学2年生の夏くらいまでの間のような、ただの暇つぶしみたいな日々が、いまさら愛おしく感じられたりする。 気づけば、暇つぶしさえまともにできなくなってしまっていた。 何の予定も目的もなく家で過ごしたり、絶えず再生される動画コンテンツをただ受動的に消費したりしてみても、どこかかつての暇つぶしとは異なる。 昔は、そんな1日を過ごしても罪悪感も危機感もなく心の底から暇つぶしができていたけれど、

特別への執着を手放す、大人になるということ

「これから先、毎日この道を行き来するのが人生なのか」 ふとそう思った時が“大人になった瞬間”なのだとしたら、僕らはようやく大人になれたのかもしれない。 あの時思っていたほど、死んだ顔したサラリーマンを満員電車で見かけることはなかったし、東京で消耗した大人にも出会わなかったし、パソコン1台で稼いでいる大人だけが憧れの対象でもなかった。 一人でカラオケに行く、好きな人に告白する、大学を辞める、仕事を辞めて転職する、自分なりに一歩踏み出した経験は数多あるけれど、今となって振り

流れに身を任せて、人生を漂う

僕らは人間だから「何も感じない」なんてことはないのだけれど、自分の感情や感覚を一々記憶してはいられない。 だから、こうして文章を書いて、嫌でも自分が「日々何を感じて生きているか」を思い起こす機会を作っているのかもしれない。 言葉が全く出てこなくて「どうして書き始めちゃったんだろう」と後悔することも少なくないし、感覚をうまく言葉にできなくて都合の良い言葉に逃げてしまうことだってある。 そんな苦悩を経てまでして書くことが果たして本当に楽しいと言えるのか、いまだに疑問は消えな

夢中になれない自分、夢中で探し物をする彼、無慈悲なビル群に佇む二人。

休日、人気がなく忙しなさから解放された、閑散としたオフィス街が好きだ。 チェーンのカフェ店を含み、コンビニ以外の店舗は軒並み閉まっていて、この街が普段いかに労働者で構成されているかが伺える。 無我夢中で仕事をこなす日々、なんて表現すれば聞こえは良いけれど、たいていは期限や数字に追われる日々で、そんな様子は側から見れば、ある意味無我夢中なのかもしれない。無論、僕自身も平日この街に溶ける労働者の一人である。 どういうわけか、いや、だからこそなのか、こうして休日もオフィス街に

"何者かになりたい"という暇人の欲求

何となくモヤモヤして、何となく自分と向き合っているうちに、都合よく連休は終わってくれる。 そしたら、またいつもの日々が始まって、目の前にある仕事をこなしていればそれで良い、そんなどこか物足りないようで実は満ち足りた日常が戻ってくる。 飲み屋で愚痴をこぼす人も、朝の電車でSNSに憂さ晴らしをする人もみんな、嫌だ嫌だと言いながらもちゃんと仕事をする。連休で時間ができて、このままで良いのかな?なんて考えてみるけれど、結局何も変わることはなく、日々を過ごしていく。 人生とはきっ

悩む自分のことが好きなだけ。気配のない眠気を待ち続ける夜

「眠れない」 ディズニーランドへ行く前夜とか好きな人に会える前夜とか、「明日が楽しみ過ぎてこのまま眠れなかったらどうしよう、何ならもう今日じゃん」なんて考えた、忘れられない夜が確かにあった。 「眠れない」 年齢を重ねたから、いや、年齢だけを重ねてしまったからなのか、“それっぽいこと”が書かれた本ばかり読むようになってしまったからなのか、小難しく考えるのがカッコいいと思ってしまう年頃だからなのか、夜、頭の中が活発に思考する。 「自分のやりたいことってなんだろう」 「自分

まだ社会人という仮面を被っただけの、青くて不安定な僕ら

あれだけ「今か今か」と満開を待ち侘びていた桜も、いざ散ってしまえば、待ち侘びていたことが嘘だったかのように、僕らの頭の中から消えてしまう。 桜の花びらと希望を纏って歩いたあの日から、僕らはすっかり社会に揉まれてしまったらしい。 社会人1ヶ月目、想像以上に自分はできないヤツだと知った。 新しい環境、想像以上に自分は歓迎されていないと知った。 相変わらず、自分は何者にもなれないと知った。 あの日纏っていた桜の花びらも、希望も、たった数週間で十分すぎるほど踏み潰された。 下

誰だって、カッコつけたい時もある

「だめだ、やっぱりカッコつけちゃってる」と冷静になった夜もあれば、「結局、カッコつけてるだけじゃん」と怒りを感じた夜もあった。 「カッコつけすぎかな」と曖昧にした文章もあれば、「カッコつけすぎて中身が薄いな」と書き直した文章もあった。 誰だって、カッコつけたい時はある。 勝手に全員巻き込んでしまったけれど、少なくとも、僕はそう思っている。 目立ちたがりの男子のような“男の性”というやつではなく、“人の性”というやつだ。 数多の紆余曲折を乗り越え、酸いも甘いも噛み分け

桜を見れるの、あと60回

春が近づく高揚感よりも、冬が終わってしまう寂しさの方を感じるようになったのは、大人になったからなのだろうか。 ふと、「あと何回桜を見れるんだろう」なんて考えてみる。 幸運なことに、僕は余命宣告を受けたわけでも、どこか体に不調があるわけでもない。むしろ、あまりにも終わりを意識せずに生きているくらいだ。 仮に日本人の平均寿命まで生きられるなら、あと60回くらいは桜を見ることができる。 あと60回。 今まで、明確に「あと何回か」なんて考えたことはなかった。 桜なんて、毎

ぜんぶ、東京のせいにして良いですか

何者かにならなきゃと焦ってしまうのも、若いうちに成功するのが正しいと思ってしまうのも、とにかく何かしなきゃと気持ちが落ち着かないのも、全部、東京のせいにして良いのかな。 自分のペースで、自分らしく、自分の身の丈に合った生き方を、ただそうしていたいだけなのにうまくいかないのは、東京のせいにして良いのかな。 東京という“リアル”の中で生きているはずなのに、SNSのような、“one of them”の世界を生きている感覚だ。 「東京」という大きな世界の中で、何者でもない一人と

誕生日だから、人生の成功について考えた

以前行ったモヤモヤ企画に、久しぶりにモヤモヤが。 人生の成功・・・。 人生の成功者とは言えない僕が「成功」について書くのはおこがましい気がするけれど、成功者ではない僕がイメージする「成功」の景色や全体像を考えてみたい。 「人生の成功」について考える時、こんな言葉を思い出す。 人生の成功について語られた本や名言、これらのほとんどは“成功者によって語られていること”を念頭に置かなければならない。 例えば、いわゆるお金持ちの人が言う「お金が全てではない」という発言は、確か

24歳と365日、今思うこと

「明日誕生日じゃん、俺」 コーヒーを淹れながら、思い出したかのようにそう呟く朝が何とも日常的に感じられて、自分にとって誕生日がすっかり非日常ではなくなってしまった感じがして、少し淋しくなった。 - 自分が思う以上に、1年間で何かが大きく変わることはない。自分を取り巻く環境も、そして、自分自身も。 23歳と365日目、「今までの人生は、変化に身を任せすぎた」という実感があった。 だから、24歳の1年間は「自分から巻き込み、変化を作りたい」と決意した。 結果的には、思