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漫画家アシスタントの告白


24歳の頃、漫画を描く時間が取れるという理由でOLをしていた。
残業もなく、時間はたっぷりとあった。でもその時間で漫画家になるための漫画を描くことはほぼなく、アイドルとバンドの追っかけと同人誌、その他もろもろで消費していた。

ぼんやりと漫画家になりたいなぁと思い続けて、気がつくと時間だけが過ぎて、何も行動していない自分にこのままではダメだと思い出したのは、入社して3年目くらいだったと思う。

このまま何も行動せずに生きるのは、自分に対してかわいそうだと思うようになった。たぶん40歳になった時わたしは後悔する。「やらない後悔より、やった後悔の方がいい」ふと思い出した、専門学校時代の友人の言葉もそんなわたしの背中を押した。

28歳になった年、会社を辞めた。
おのれのバカさ加減に気づいたのは、投稿作品を作り出してからだった。会社にいながら投稿するという選択肢はなかったのかと。50歳を過ぎた今でも最大の弱点である、計画性のなさを存分に発揮してしまったのである。描くことに行き詰まるたびに不安になった。

もともとメンタルも強くなかったのだ。
(自覚はなかったけれど)仕事のストレスで電車に乗れなくなった時もあるし、苦しいこと、キツイことにすぐに根をあげてしまう。

会社もやめてどうするの。
描き進めていくうちに、自分の描く作品が面白くないことに気づいた。デビューできるかどうか分からないのに、勢いだけで会社という安心の場を手放したことを何度も後悔した。

それでも投稿だけはしようと思って、ヒィーヒィー言いながら描き続けた。
もう無理、締め切り間に合わへん。半泣きになりながら限界を感じる度に、目の前の壁を見つめた。

壁にはスマップを脱退した森(且行)くんの切り抜きを貼っていた。国民的アイドルになっていくスマップをやめて、小さい頃からの夢だったバイクの世界で生きる選択をした森くんを見ると、じわじわとエネルギーが湧いてきて、止まっていたペンを持つ手が動いた。

締め切り当日、なんとか描きあげて投稿した作品は、どう見てもデビューからはほど遠いものだった。その作品が小さな賞をもらったのは、運としか言いようがない。

投稿作を描きあげて気づいたのは、圧倒的な画力のなさだった。どうしようか考えていた時、たまたま立ち読みしていた漫画雑誌で、雑誌の粗い印刷にも関わらず、自然物がとても美しい画面に目がとまった。繊細な線で陰影が描かれ、光が浮かび上がっている背景はとても美しかった。漫画の背景を見て美しいと思ったのは初めてだった。

ページの柱に「漫画家を目指す人、基礎から教えます」とアシスタント募集があり、それがその後、4年間お世話になる先生との出会いだった。


サンドイッチ・パニック


アシスタントになって、初めてのペン入れはサンドイッチだった。
小さなコマには鉛筆で下描きされたサンドイッチがあった。コンビニで見かける三角形のレタスサンド。特に難しそうでもない絵に、他人の原稿、ましてやプロの原稿をさわるのに緊張していた体と心から、ホッとして力が抜けた。

下描きをなぞる様にペンを入れて、隣の部屋にいる先生に持って行く。原稿を見つめた先生は小さな沈黙のあと口を開いて、やり直し、と静かに言った。

何がやり直しなのか、正直分からなかった。下絵に沿ってペンを入れたのに。それでもどこかが悪かったのだろう。わたしはどこか自己完結してしまう悪いクセがあった。どこがダメだったのか分からないまま、少しだけ修正を加えて持って行くと、今度は「質感を出して」と低い声でダメ出しされた。

小さなコマに、2センチ程のサンドイッチ。
でも、どう描けばいいのか分からなかった。どうしたらパンの質感って出るの? レタスって? こんなに小さい絵で質感? 今まで質感を意識して描いたことのなかったわたしは、描き方がわからないことにパニックになり、なかなかOKがもらえないことが恥ずかしくてたまらなかった。

「こんなに描けないなんて・・・」
やっとOKをもらった後、先生がこぼした声を今でもよく覚えている。

作家さんによって作風は様々である。わたしは先生のアシスタントでありながら、先生が作画の際に何をたいせつにしているのか、その時は全然知ろうともしていなかったのだ。なので、ただ自分の受けたショックだけでいっぱいいっぱいになっていた。


観覧車は息をとめて。


人前で絵を描くのが苦手だ。
特に絵がうまい人の中に入ると嫌でも比べて、どれだけ自分が描けないのかを痛感し、絵を描く楽しさよりも描けないつらさで苦しくなった。

7人いたアシスタントの中で、わたしはいちばんヘタクソだった。
頭の中は「描けない、どうしよう」という自分で自分にかけるプレッシャーでいつもいっぱいだった。緊張と浅い呼吸。逃げ出そうとする意識をなんとか自分の中につなぎとめて、いつも描いていたように思う。

やっと仕上げた昨日の続きの下書きにオッケーが出ると、次の原稿を手渡された。トレース原稿だった。B4サイズの原稿用紙の裏に、資料を拡大したコピー用紙が貼られている。それをトレース台にのせ、下からライトを当てると線が浮かび上がる。その線を真っ白な原稿用紙に拾って描いていくのだ。

「トレースしたことある?」「ちゃんとした事はないです」
そんな会話があったと思う。あったはずだが、トレース原稿はそのままわたしに渡された。

描くのは大きな観覧車だった。
B4サイズの画面から観覧車がはみ出している。迫力のある画面。描く以前に、そのサイズ感にすでに気持ちが押しつぶされそうになった。

観覧車なんて、描いたことがない。
わたしの漫画に出てくるのは、少年と家と公園と花くらいのものだった。0.3のシャーペンを持ち、目の前の白い原稿用紙を見つめながら、どこから描けばいいのか分からず途方にくれた。

線を拾うという意味はわかる。が、この複雑で線だらけの観覧車の、どの線を拾っていけばいいのかまったく分からなかった。

先生は下書きの時は音楽をかけない。沈黙と、過ぎていく時間と、6人の先輩アシスタントが立てるシャープペンシルの音。全てがプレッシャーでしかなかった。描かなければと思えば思うほど、目は泳ぐし、息もうまくできない。脳の血管も血流もおかしな動きになっていたと思う。朦朧とする意識の中、とにかく拾える線を拾っていった。

「これだけ?」
昼休憩に入り、わたしの原稿を覗いた先輩アシスタントから、思わずといったような、少し驚きも混じった声を掛けられた。同感。わたしも思った。これだけ?って。原稿を渡されてから2時間以上経っているのに、原稿用紙には観覧車の姿がまったく見えていなかったのだから。

昼が終わり作業を再開すると、先生がどこかで「描けないなら、もういいよ」と言ってくれないかなという、ちいさな願いが浮かんでくるようになった。責任感よりもプライドよりも、ただこの原稿から一刻もはやく解放されたい気持ちでいっぱいだった。

結局、最後まで先生から声をかけられることはなく、丸一日かけて初めての本格的なトレースは終わった。合掌。


やらかした事はつきないけれど。


先生には4年間お世話になった。
よく雇い続けてくれたものだと思う。通いだして3ヶ月くらいは、仕事が終わるたびに、いつ「もう来なくていいです」と言われるのだろうと思っていた。

原稿にお茶をこぼしたこともあったし、描くスピードも一番遅いし、パースも空間を掴むのがヘタで何度もダメだしを出すし、そのくせ努力もあまりしていなかった。先生から見るとそんなわたしの姿勢には、言いたいことも、思うところもいっぱいあったんじゃないだろうか。

朝から晩までトイレと食事以外は、ずっと描き続けた4年間だった。
後になって気づいたけれど、先生はいつもその時のわたしの実力よりも、ひとつ先のむずかしい作画を与えてくれていた。手も足もでない先ではなく、ほんのひとつ先のむずかしさのあるものを。

当時のわたしは描くことに必死で、うまく描けない自分の苦しさしか見えていなかったけれど、先生はずっと育ててくれていたのだ。
家の事情でアシスタントを辞めることになり、最後の仕事の夜は布団の中で泣いた。最初はあんなに苦しかった場所だったのに、ここを去るのはとっても寂しかった。

一生懸命にやっていたつもりだったけれど、もっと真剣になれたんじゃないかという未消化な思いもある。でもあの時、あのタイミングで会社を辞めたことは、その後に出会った人、経験したことを思うと、よかったと思っている。

日常で受け取ってきたものを、マンガやことばで表現してお届けします。楽しんでもらえたらうれしいです。