幸せとは

「失ってから幸せだったと気づく」という文はありふれた言葉だが、解決の糸口がないように思える。多くの人がこの言葉を知りながら、幸せを失い、またこの言葉を呟く、というループが生まれているのだろう。だからこそ語り継がれ、皆が知っている言葉となっている。

しかし、それならば、「幸せ」とは誰も触れられない、手の届かない理想なのか。そうでもないだろう。皆が想像する幸せは存在するし、失ってから気づくということは、幸せであるタイミングは必ず生まれているはずだ。

快楽主義というものをご存知だろうか。
これは禁欲主義と対立する思想で、快楽こそが善であり、それを求めるために人は生きるべきだという主張だ。
この快楽主義の中でも有名なエピクロスという哲学者が提唱した考え方に、「隠れて生きよ」というものがある。
快楽を求めるために必要なのは、不安や不満、憎悪などのネガティブな要素をなくすことだとエピクロスは説いた。

これを踏まえて、「幸せ」とは不幸だと感じる要素が少ないことであると定義し直したい。

人は存在しないものをいちいち数えたりしない。つまり、失ってから気づく幸せというものは、存在していなかったネガティブな要素が発生することで認識出来るようになるというだけの話なのだと考えたい。

さらに、エピクロスが「隠れて生きよ」と説いたように、負の影響を受けないためには他者への干渉を避けることが重要だろう。ポジティブな影響ならまだしも、ネガティブな影響を与える者にはネガティブな影響が返ってくる。とすると、例えばSNSで荒らしや誹謗中傷を行っている者にへの苛立ちも少しは抑えられるのではないだろうか。彼らは勝手に自らを不幸にしているのだから。


自分はこの考え方のおかげで推しに粘着するアンチに苛立たないばかりか憐れみさえ向けられるようになりました。
この対処法が正しいか、そもそも考え方から間違っていないかは分かりませんが、自分の心の避難所になったので、共有させて頂きたく、投稿した次第です。
note初投稿だったのもあり、拙い文章だったと思いますが、ここまで読んでくださりありがとうございます。

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