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『リズと青い鳥』の長い感想②

昨日の続きです。
書き忘れましたが合計で一万字くらいあるものを四回に分けて載せます。
ご興味のない方、すみません。来週からはまた通常運行に戻ります。

今日は、【映像表現】の途中からです。

(以下、感想の続き。ネタバレあり)


2、冒頭の二人の歩き方。
多くの人が指摘しているように、序盤の注目シーンです。
映画の始まりは、劇中劇のリズの話から。その最初の劇中劇のパートの後に、一転して校門から音楽室へとほぼ無言で歩く二人のシークエンス。
アスファルトとみぞれの足から始まる本シークエンスは、見た瞬間に現代の場面であることが分かると同時に、それに続くシークエンスで、ほとんどセリフのないまま二人のキャタクターとその関係の紹介が完遂されています。このシーンから始まり、最後の「ハッピーアイスクリーム」の手前まで、二人の歩調はずっと揃わないまま。最後の最後でようやく揃います。
山田尚子監督が、なんとか作品を壊さないように、でもハッピーエンドにしたかったと語る本作品は、最も抑制的な方法で、作品後の二人の小さな希望を提示して終わりますが、その「仕込み」がここから始まっています。
希美は意気揚々とタカタカ歩く。その後ろをトボトボ歩くみぞれ。
この構図は全編にわたり繰り返されます。
みぞれはずっと希美の背中を見つめ、希美はみぞれが付いてくることに確信を持っており振り返りません。
ただ歩くだけでキャラクターの個性を表現し、あまつさえ、数分にわたりほぼ無言のこのシークエンスによって、観客に飽きさせないように注意を払うのみならず、物語に引きずりこんでやろうという野心的な挑戦は、少なくとも私に対しては成功したようで、二人が音楽室の鍵を開ける頃にはすっかり作品に魅了されていました。
それらに加え、作品の世界観や立ち位置を知らしめるための工夫も見て取れます。
まずこのシークエンスにおいては、映画らしい引きの画か、みぞれの主観を表現した寄りの画の、二つのアングルが大半を占めていました。引きの画は二人の世界の不可侵性、つまり観客は見守る立場でしかないということを、寄りの画はみぞれには希美しか写っていないことを端的に表しています。
この若干いびつとも言えるレイアウト構成は、序盤から観客に緊張感と没入感をもたらしたように思います。
話が逸れますが、二人の関係性を示す同様の演出は他にもいくつも詰め込まれています。
例えば、冒頭で先に校門をくぐるのは希美ですが、ラストではみぞれが先に出ています。
終盤で、希美は図書室へ、みぞれは音楽室へと、それぞれ別の場所に向かうシーンでは、希美のポニーテールと同じくらいみぞれの後ろ髪もゆれていて、二人が同等の立場になったこと及び、みぞれが一人で歩き始めたことが視覚化されていました。

3、演奏シーン
自分が青い鳥だと気がついた直後の、映像的なクライマックスシーン。
京都アニメーションのフィルモグラフィーを追いかけ、『響け!ユーフォニアム』の本編もご覧になっている方には、相変わらず京アニが淡々とレベルの高い演奏シーンをやっているという印象だと思います。
私の大方の印象もそうです。
オーボエの演奏を担当されている方の表現力によって、遠慮していた頃のみぞれの演技と全てを開放したそれとの差異は、素人の耳にもはっきりと分かります。それがこのシーンの中心であることは間違いないのですが、それに見合う作画力がなければ成り立たないシーンでもあります。
圧倒的な音の表現に見合った作画がなされているからこそ、演奏中でセリフによる説明ができない中、涙をこぼし演奏できなくなる希美の心情がリアルタイムでダイレクトに伝わってきました。
このシーンの説得力はクライマックスの盛り上がりにとって重要であるとともに、直後の二人の対決にもたらす緊張感にも大きく影響するところです。
難易度の高い重要な演奏シーンを、ある意味、ことも無げにやってみせる技術力には脱帽せざるを得ません。

アニメーションについては以上です。
演奏シーンをどう扱うかは棚上げするとして、日常描写の積み重ねによって物語を紡ぐ手法は、高畑勲(たかはた いさお)の系譜だという言説をネット上で散見しました。『この世界の片隅に』の片渕須直(かたぶち すなお)監督にも引き継がれている哲学を、京都アニメーションはテレビアニメーションの中で、それも萌え作品と呼ばれるジャンルの中で体現しようとしてきた。その一つの到達点が本作品だと私は解釈しています。
また、頭身の高い、やや少女漫画っぽい雰囲気へとキャラクターデザインを変更したことや、光の多い画面作りとそれに伴うキャラクターの陰影の減少は、作品全体に儚げな印象を与え、美しいビジュアルイメージを喚起していました。描かれている少女たちの内面とのコントラストという意味では毒を含んだ表現とも受け取れますし、不完全な人間存在は愛おしいというメッセージでもあるように感じます。テレビシリーズから演出の方向性を変更する試みは、『たまこラブストーリー』でも行われていました。本作品ではそれがより進化していたように思います。いずれにせよ、作品の持つ繊細さを過不足なく裏打ちしていました。

(続く)

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