精進とは

なんとかしようとする と 精進する の区別

私たちは不純な印象を持って生きている
不純な印象に基づき、様々なニセの願望を持ち、それを叶えようとする
そこにはいろいろな苦労や努力があるが、それらを全て「なんとかしようとする」に区別される
(「なんとかしようとする」の例) 不純な印象「私は偉大である」の人が偉大さを一生懸命実現しようとして頑張って仕事をして、会社の社長になり、多くの社員を持ち、「私は偉大である」という経験をしようとする
【これは いい/悪い ではない】

(例) 不純な印象「私は非常に惨めな人間である」の人が、自分自身をなんとかしようとして豊かな、華々しい人生を生きようとするとき、これも「なんとかしようとする」

一方、精進する は、自身の純粋性をあらわしていく
自分の不純な印象を手放し、自分の本当の純粋なものをあらわしていこうと
する ―それが精進

(精進の例) 不純な印象「私は偉大である」の人が自分の中にある謙虚さを一生懸命あらわして生きようとするとき、それはその人にとっての精進になる

(例) 不純な印象「私は惨めである」の人が自分の中にある純粋さや美しさをあらわして生きようとするとき、それは「精進する」になる

今まで自分が何をどのようになんとかしようとして生きてきたのか?
何をどのように、どんな風に精進してきたのか?
―を一度振り返ってみると良いでしょう
↓ なぜなら
なんとかしようとしていたことは自分がニセの願望を叶えようとしていたことだし、
精進していたことは自分がダルマをしていたことに繋がるから
―純粋な思いを感じ、それをあらわそうとすること ―それがダルマ

「精進」はまさにダルマそのものになる

一度自分を振り返ってみると良いでしょう 

   / 2021 / 10 / 23

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