普遍的にあるもの

誰の内側にも純粋な思い = ただひとつの思い がある
純粋な思いを具現化する活動をダルマという

私たちはダルマを「やりたい」といく気持ちから具現化してるだろうか?

純粋な思いは誰の内側にもある
24時間ある
なくならない
ずっとある
↓ ・・・ということは
本当はダルマをやっていないときはない
本当はダルマが元になって(源になって)あらわれている活動がない ということは本当の意味では「ない」
↓ つまり
あるとき「これをやりたい」と思っているとき、「やりたい」の始まりは純粋な思いではない ―ということ

純粋な思いに基づく活動は常にやっている
「やっている」こと
ある意味では自分が自覚していなくても「やっている」こと ―そこに純粋な思いの源がある
「こういうときだからやりたい」には純粋な思い・・・というよりも、その上で純粋な思いを隠している自我の質があらわれている

確かに「「やりたい」という思いではなく、「(なぜか)やってしまっている」ことが私にはある」という人もいるだろう
そういうときにも気を付けること
↓ なぜなら
自分の自我、不純な印象、否定的な想念は必ずしも自分が自覚できないときがあるから
自分が自覚できない何か覆っているものに基づいてやってしまっていると思っていてもそこにはやはり「やりたい」が隠れている
本当に純粋な思いに開かれていくためには、自分の内側をしっかり見つめて、
本当に「自分」を手放していく→その先に純粋な思いに開かれる ―という到達がある 

/ 2021 / 11 / 19

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?