漫才師が出て来る時、なんで「どーも!」と言っちゃうのか?
ある古老の漫才師が言っていた。
「今の漫才師の何が嫌かって、自分で手を叩きながら『どーも!!!!!!』って出て来る登場の仕方ね。本当に能がない。そもそも自分で拍手をするような漫才が面白いかね。あんなことをやるのはドサ漫才だと昔は言われたのに、今は多くの人がやっているんだね。いやになっちゃうよ。」
最近の漫才を見ていて一番気になるのが、拍手をしながら「どーも!!!!!!」と大きな声を出しながら登場してくる、あの出である。
もはや漫才の代名詞のようになっている登場の仕方であるが、私はあれを見るたびに嫌気が差して仕方がないのである。
一言で文句をまとめるならば、「もう少し登場に芸を持たせられないものか」。
こんな「どーも!!!!!!」ばかり書いていると、こちらがおかしくなっているんではないかと思われてしまう。落語の「次の御曜日」ではないのだから、あんまり「どーも!!!!!!」とも書きたくない。
しかし、この「どーも!!!!!!」をうまく表した言葉がなかなか出てこない。「どーもくん」とでも言おうか思ったが、こんな事を下手に定義した日には天下のNHKにぶん殴られる事であろう。
ただ、この「どーも!!!!!!」がどうにかならないものか、といつも案じているのである。
「登場くらいなんだってかまわないだろ」
と言われれば、そりゃその通りである。内容が面白ければ、登場の仕方なんて二の次であるのは言うまでもない。
しかし、殆どのコンビが「どーも!!!!!!」と手を叩きながら、出てくる――これを何度も見せられる方にもなって欲しいものである。
一組二組なら「元気があるな」と思うかもしれないが、これが延々と続く。
また、手は叩かないにせよ、出だしで「どうも○○です、よろしくお願いいたします!」という紋切り型の挨拶を並べられるのも頭痛の種である。
腐ってもプロである以上、もう少し登場というものに意識を持ってもらえないものか、と思うのである。
確かにテレビの尺(短い時間)や、インパクトを考えると「どーも!!!!!!」が最適解なのは判らなくもない。
真っ先に観客の胸ぐらをつかむには、自分のコンビ名と存在を押し付けるのが一番だからである。
しかし、「どーも!!!!!!」とみんな似たり寄ったりの挨拶では逆に印象が薄れるような気がしてならない。現に私はこの出方をされると「またか」と思って見てしまうため、なおさらに印象が薄くなる。
変な見方をしていると批判されればそれまでかもしれない。しかし、落語家や漫談家がそれぞれ独特の出を工夫しているのを考えると、そういう嫌気が出て来るのも、無理はないのではないだろうか。
私は落語が好きで時たま見るのだが(最近はコロナと持病で寄席に行けていないが)、落語家というのは本当に出を考えている。
せかせかと出て来るもの、楽屋口から座布団の間までに何度も頭をぺこぺこしているもの、鷹揚に出て来るもの、殆んど一礼もしないもの――などなど、その癖を上げるとキリがない。
「形態模写」ならぬ高座の出の物真似をするのが得意――という落語家がいて、時折その芸を見せることがあるが、なるほどその物真似を見ると、この師匠はこう上る、とひどく感心させられるのである。
当たり前の話であるが、模写されるという事は、それだけ個性や面白さがあるという証拠である。
逆に言えば、今売出しの漫才の中で、こうした形態模写をされるだけの出を持ったコンビはいるのだろうか。
「落語家と漫才師は違う」
それは確かにその通りなのだが、しかし、同じ笑芸を担うもの、演出や話術に差異こそあれど、そこまで距離のあるものではないだろう。
落語家でさえ出を工夫するのであるのだから、漫才師もモットモット工夫をしたっていいんではないだろうか。
無論、劇場やライブハウスに行くと出を考えている人もいる。しかし、漫才が基本的に注目されるのは「テレビ」である。
そのテレビの番組の中においても、未だ「どーも!!!!!!」みたいな出を繰り返しているのは如何なるものか。
大体、どーもどーもで許されるのはNHKくらいなもんではないか。それとも忍たま音頭でも踊ろうという魂胆なのだろうか。
非公開になってしまったので分析ができないが、確かM-1の予選突破の漫才師は、「どーも!!!!!!」の登場が多かった。
ネタは面白いのに出がテンプレート過ぎて損をしている印象さえ覚えた程である。
一番ひどい時には、予選突破の1,2,3位の全組が「どーも!!!!!!」で出てきていた。余りにも芸がなさ過ぎて辟易してしまった記のは言うまでもない。
流石にM-1の決勝になると、そうした「どーも!!!!!!」という出だしをする人は殆どいなかった。逆にゆにばーすや錦鯉の如く、独特の挨拶で客の胸ぐらをつかむ例もあった。
決勝だから緊張をしている、既に決勝だからそこまで客に媚びる必要がないという理由もあるのかもしれないが、やはり出を工夫している人を見ると「ひと味違う」と感心したりするのである。
皮肉になるのかもしれないが、「どーも!!!!!!」と十年一日の挨拶を繰り返す漫才師は、出を考えない漫才師はいつまで経っても最上層には至らないのではないか。
キャラクター、話術、コンビのネタなどとなんやかんやと話題になる漫才論であるが、出だしについて論じる人はなかなかいない。軽視されている感さえある。
しかし、「どーも!!!!!!」の出だしでは絶対損をしていると思われるのである。余りにも奇抜な出だしも困るが、少しくらい出を演出したところで罰は当たるまい。
むしろ、個性こそが漫才だとするならば、先人や先輩のマネで終わるようでは困り物である。ネタやキャラクターに凝るのもいいが、まず第一のインパクトも考えるべきではないか。
と、まあ散々貶してはみたものの、漫才師全てのせいとも言い切れない。
中には「どーも!!!!!!」とやらないとお客やテレビが納得しないというのはあるのかもしれない。
そして、中には工夫している人もいる。
昨年M-1で優勝し、ノリにノッている錦鯉。あれなどはいい例だろう。
長谷川さんの「こんにちはーーーー!!!!!!」というバカ丸出し風に見せる十年一日の挨拶は、マンネリとお馴染の間をうまくいく演出だと思うのである。
「こんにちは!!!!!」「うるせえな」の一連のやり取りだけで、客はドッと受ける。
たったこれだけであるが、最初に笑いが取れるだけで演者はどれだけやりやすい事か。真っ先に客の胸ぐらをつかむうえに、ボケとツッコミが明確化される。これは兎に角大きい。
少ない手間で最大限の効率を上げている例だろう。
さらには、「こんにちはのおじさん」とか呼ばれるようになった――と先日ラジオかなんかで語っていたがここまでくればしめたものである。
愚直に見える出と挨拶さえも、錦鯉は己の武器にしてしまった。これだけ見ても出の大切さがわかりそうなものではないだろうか。
私の好きなトリオ漫才、Yes!怪奇どんぐりRPGにも言える。
出こそは「どーも!!!!!!」と実に陳腐なものであるが、ドタバタドタバタと舞台一面暴れるように出ていくのはやはり得策であろう。うるさいとか、暴れ過ぎという批評もあるが、変に手を叩きながらマイクの前で大人しくなる漫才師よりはよほどマシである。
一度、「どーも!!!!!!」と出て来たかと思うと、ステージを通り過ぎて幕――という余りにも前衛的なことをして、観客の度肝を抜いた事があったが、これなどは出をよく考えている。
そして、出てきた後の挨拶が振るっている。
「自己紹介します」「Yesアキトです!」「サツマカワRPGです!」「そんでそんで僕が~~~C3PO!R2D2!DDKC!どんぐりたっけしー!」
と、いつもこれを繰り返す。実にくだらないギャグなのだが、このくだらなさのバランスが実に見事である。笑点の木久扇氏の駄洒落的な味わいというべきだろうか。
この出だけで、このトリオは客の胸ぐらをつかむことに成功している。最近では味を占めたのか、メンバーの誰かがいなくても平然とこの挨拶をする。
熱心なファンは抜けている穴を補完するかのごとくにそのギャグや立ち振る舞いを想像して爆笑する――異常といえば異常なのかもしれないが、そこまで観客がやってくれるようになったら大したものではなかろうかね。
基本的にお笑いは一期一会であることが多い。印象を強くするには、どういうキャラだったか、どういうネタだったかを印象付ける必要がある。
そういった意味では、着物を着てはなから「落語をやる」というイメージを持たせる落語家や、おかしな扮装やコスプレが許されるコントは得なのである。
漫才はそうした強みがないからこそ出を強くすべきではないか――というのが結論である。
最後に私の本業である漫才研究――漫才の歴史から「どーも!!!!!!」が何処から来たのか考えてみる事にする。
昔の漫才師はドタドタと出るのを良しとしなかったという。
それと、昔時分から拍手を求めるようなことをするのは、ドサ周りの司会者や芸のない芸人がやるようなことであったという。
サクラを求める――というのは変であるが、己の芸の拙さを棚に上げて、空元気のように盛り立てようという姿勢は、中央の人気者からはひんしゅくを買ったという。
当然、そういう拍手強要するような司会者や芸人にいい仕事が来ることは殆どなかった。
一番最初に出てきた古老が「ドサ漫才じゃあるまいし」というのはそういう所からきているようである。
一方、挨拶は結構長くやった。明治末から昭和中頃まで70年近い芸歴を誇った砂川捨丸は舞台に出るたびに、
「ご来場厚く御礼申しまして、交代を致しました。漫才をやらせていただきます。何しろ漫才の骨董品で……」
というのを連呼していたのだから律儀といえば律儀である。
この挨拶の習慣はずっと古くからあり、出て来るなり「いらっしゃいませ」「ようこそおいでくださりました」と口上を切る例はあった。
ただ、ドタバタと出て来ることは殆どなく、マイクの前で一礼して「いらっしゃいませ」という事が殆どであった。
そして、この「いらっしゃいませ」の挨拶をよくしていたのは、主に関西勢であったという。
関西は漫才が主体で、「我々漫才を見に来てもらっている」という意識が強かった事やお客との距離が近いのが幸いした。
ある意味では第三の壁、観客と舞台の間にある壁の概念が希薄というべきだろうか。お客いじりもするし、時にはヤジの応酬もする。
一部では、やすし・きよしが、漫才と観客の壁をぶち抜いた、というが、別にやすし・きよしが客いじりや第三の壁破壊を試みたわけではない。
考えようによっては、やすきよのスタイルは大阪の古い演芸場のスタイルを強く煮だしたともいえる。温故知新というべきだろうか。
一方、東京漫才はすっとネタに入る事が多かった。特に寄席漫才では余りごちゃごちゃというのを良しとしなかったという。中には「自分達は色物だから」といって、前振りをしないでネタに入る人もいた。
現にリーガル千太・万吉や三国道雄・宮島一歩なんかはそうで、
「いい陽気になりまして」「本当にね」
「あの、僕の写真を持ってませんか?」「君の写真ン?」
などと、観客そっちのけで平然とネタに入るのがあった。
そしてそれがスマートであればあるほど粋だというのだから、これだけでも東西の差が出ている。
もっとも、東京でも「いらっしゃいませ」という例はあった。全てが全て、観客を無視したような芸風ではなかった事は注意である。
面白いのはコロムビアトップ・ライトである。この二人は、
「お笑いでございます」
という前口上を置くことがあった。これなんぞはスマートでいい。司会漫才を完成させた二人らしい、なんともいえぬエスプリと自信がある。
自分に自信がなければ、「お笑いで御座います」などときざな口上はそう切れまい。これだけでトップライトの芸風がわかるものである。
では、あのドタバタと出てくる感じのそれは誰が考案したのか――となると、把握できる点では、横山ノック・フック・パンチの『漫画トリオ』辺りからではないかと思う。
それ以前からいたタイヘイトリオやかしまし娘という音曲漫才も、楽器をかき鳴らしながら派手に登場した――という例があるが、こちらは音曲漫才で、楽器を鳴らす所に趣きが有ったので、「どーも!!!!!!」のそれとはちょっと違うであろう。
このトリオの音源や映像が若干残っているが、本当に今のトリオと同じようなことをしている。
ドタバタと高座に出てきて、「漫画トリオです!」「フックです」「ノックです」「パンチです!」とあいさつをしてから漫才のネタに入る。
シチュエーションコメディっぽいトリオであったといわれると、確かにそうなのであるが、それでもこのトリオの出や演出は並々ならぬ影響を与えたのではないか、と思うほどである。
そして、もう一組大きな影響を与えたと思うのが、「レツゴ―三匹」である。
「じゅんでーす」「長作でーす」「三波春夫でございます!」
このつかみは、今なお漫画やアニメで使われる有名なネタであるが、実はこのコンビも出が凄く派手で、舞台をドタドタと踏み鳴らしながら出たり、時にはマイクの前を通り過ぎて派手に挨拶をしたりした。
東京で、大きな影響を与えたと思われるのがWけんじである。こちらは出こそ静かであるが、東けんじがわざと宮城けんじの前を横切ったり、マイクを跨ごうとするパフォーマンスをして人気があった。
では、「どーも!!!!!!」という挨拶は何所から来たのか。
これはやはりツービートや阪神巨人、B&Bなどの「漫才ブーム」からきているように思われる。
ただ、彼らは「どーもツービートです」みたいな事は言っても、手を叩きながらは出てこない印象である。手を叩いているのかもしれないが、観客の喝采の方が大きくて、いまいち判然としない感じである。
意外なのが、現代漫才のカリスマ的存在であるダウンタウンが「どーも!!!!!!」という感じの出を演じていない点である。
この二人の事だから、ここらあたりが源流かと思いきや、「どーも、どーもダウンタウンです」みたいな自己紹介はしても、手を叩くような事はない。二人ともすっと現れてからこの挨拶である。
手を叩きながら出てきたことがあるかもしれない――が、しかし大半は「どーもダウンタウンです」みたいな、些かダルそうなあいさつで占められている。
では、ダウンタウン以降の世代――いわゆる第四世代の誰かしらか、と思ったがこれも違った。
キャイ~ンは、出こそ独特であるが「キャイ~ン!」という決めポーズが売りで、「どーも!」的なそれはやらない。
雨上がり決死隊やFUJIWARA、ロンドンブーツはコント的な漫才が主体のため、そもそも登場=ネタの中というスタイルが多く、「どーも!」が出て来る機会が少ない。
『ボキャブラ天国』や『吉本印天然素材』といった番組の構成が特殊であったといえばそれまでかもしれない。
しかし、第四世代頃まで、「どーも」とあいさつこそすれども、手を叩きながら出て来るような漫才師が殆ど出てこない。
全ての番組を見通したわけではないので、当然抜け落ちがあるのかもしれないが、今カリスマともてはやされる世代の漫才やコントには、手を叩きながら出て来る「どーも!!!!!!」がないのである。
いくつかそれらしい所作はあることにはあったが、それでも絵に描いたような「どーも!!!!!!」は見当たらなかった。
ただ、考えていくうちに一つの疑念というか、推論が浮かび上がってきた。「どーも!!!!!!」が定着する源流についてである。
それは「エンタの神様」「爆笑レッドカーペット」「爆笑オンエアバトル」というような番組の存在。そして、それに伴って人気を博した漫才師たち――第五世代の存在であった。
「エンタの神様」「爆笑レッドカーペット」は21世紀初頭を代表するお笑い番組として名高い反面、兎に角煽りやサクラの多い番組として賛否両論があげられていた。
ダダ滑りにもかかわらず、無理やりサクラやテロップを入れて、おかしいように見せるそれに驚いたり呆れたりしたお笑いファンもいるのではないのではないか。
「爆笑オンエアバトル」はそこまで露骨ではなかったがそれでも番組独自の審査方法で、若い観客や来場者に「オンエアさせるかどうか」と突きつける点では、これまでの一方的に観客に見せる漫才といったものを否定して見せた。
して、あの番組群で受けたのは話術というよりも華やかさであった。
現にダンディ坂野やですよ。といった一発芸系の人間があれだけ受けたのは、その芸の面白さというよりも誇張的な立ち振る舞いや騒々しさにあったのではないか。
それはテツアンドトモやはなわといった音楽系の芸人にも言える(ただ個人的にテツアンドトモやはなわの芸はキチンとしていると思う)。
別にそれが悪いとは言わない。虚構の人気であったとは言えども、それが社会現象を起こしたのは事実である。
となると、漫才師たちにも求められるのは賑やかさである。これまでのようにすっと出て、軽い挨拶をして――では、観客を惹きつけられない。
そうなると、一層激しい何かを求められるのは当然の帰結であったといえよう。最初から派手な音楽を流し、賑やかに出ていくようになるのは番組のコンセプトにあっていたのかもしれない。
そこで、タカアンドトシとかブラックマヨネーズといった第五世代のネタを見てみた。
すると、全てではないが、確かに「どーも!!!!!!」の原型らしきスタイルを演じるようになっているのである。
特にタカアンドトシ。流石に大声で「どーも!!!!!!」とはいっていないが、自ら手を叩きながら出て来るようになっていた。
これには驚いた。流石にタカアンドトシが「どーも!!!!!!」で出て来る元祖とは言わないが、この辺りから一つの形が定着したといってもいいのかもしれない。
そんな一つの推論が出ると、後は簡単である。
なぜ今の漫才師がそこまで手を叩きながら出て来るのか。それは今の若手世代が、「エンタの神様」「爆笑レッドカーペット」「爆笑オンエアバトル」直撃世代だからである。
「エンタの神様」「爆笑レッドカーペット」「爆笑オンエアバトル」などで見た芸人の姿に憧れたとするならば、それを真似するのは当然の結果であろう。
別にこれは今に始まった事ではない。ビートルズが流行ればこぞってビートルズの真似事をはじめ、ボーカロイドが流行ればこぞってボーカロイドの真似事に走る。それと同類である。
「エンタの神様」「爆笑レッドカーペット」「爆笑オンエアバトル」などで、手を叩きながら出て来る、華々しく出ていた姿が、今の若手や中堅に伝承された、というべきだろうか。
手を叩きながら出て来るそれは、テレビ演芸によって生み出された仕草が、誇大化・デフォルメ化されて今に至った例なのかもしれない。
そう考えると、なかなかテレビ番組も罪深いことをしてくれたものだ。
別にそれを早急にやめろ、とは思わないが、既に時代は変わりつつある。
いつまでも先人と同じような出を繰り返した所で飽きられる。プロである以上は出を考えればならない――という結論に至るのであるよ。
以上。
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