偏愛的浪曲レコード入門 歴史的資料篇 上

二代目 東家楽遊『小松嵐』

  浪曲を一躍大劇場までのし上げた雲右衛門、奈良丸の人気後に颯爽と現れた超新星が、東家楽遊です。

 楽遊といえば『小松嵐』、『小松嵐』といえば楽遊と謳われた程の人物で、元祖ロングセラーアルバムを記録した、偉大なる先人です。この記録、功績はそんじょそこらの歌手やタレントには負けないものだと思います。

 元々は東家大吉(初代楽遊の門下説もある)の弟子で「東家小楽」。師匠と共に、寄席まわりをしていた一介の浪曲師でしたが、初代楽遊から「東家楽遊」を禅譲され、一躍大看板となり、東家楽燕と共に鎬を削る事となります。

 師匠譲りの純然たる関東節を得意とし、1910年には日蓄から、二代目奈良丸と抜擢されて、浪花節の初吹込みをしています。

 それだけでもすごいのですが、当時『都新聞』に掲載されていた『小松嵐』という歴史小説を、兄弟弟子の「東家千遊」と共に、浪曲化。寄席や劇場で演じるようになります。

 1911年、日蓄(ニッポノフォン)にレコードを吹き込み、発表しました。これが楽遊の『小松嵐』のはじまりです。

 原作の『小松嵐』は長い長い小説で、勤王の志士・小松龍蔵が様々な妨害に遭遇しながら、己の使命を果たすべく、歴史の荒波を前に揺れ動く幕末を暗躍する――という話ですが、上のレコードではその出だしである「お時の責め苦」を語っています。

 このレコードだけ聞いてもちんぷんかんぷん。一応前後を説明しておくと――

 小松龍蔵は小説の初めから「徳島藩を脱藩し、江戸表に良からぬことをたくらむ不届きもの」として、お尋ね者の身の上。仙台へ潜伏していたが、理由あって水戸への逃避行を試みる。
 この時、逃避行の手伝いをして同行をするのが馬子のお時という少女。
 小松はお時を連れて水戸へと向かうが、その道すがら、彼を捕まえようとする代官やその家来、般若の仁蔵なる極道に絡まれる。小松の剣術や策略で窮地を逃れ、小松はお時の家に泊まる。
 そこへまたしても追手が現れ、小松に立ち向かうが、お時の機転で小松は逃亡する。しかし、この一件で、お時は村人と庄屋から父を人質に取られる形で、召し取られ、「お尋ね者をかくまった輩」として代官所へと送り込まれる。小松を庇うばかりに、お代官の怒りを買ったお時は、拷問を受ける事となる――

 この拷問のワンシーンが、レコードになっている訳です。どれだけ拷問を受けても、絶対に口を割らないお時の甲斐甲斐しさ、強さは「殺さば殺せと馬子の時……」という一節に現れています。この節は、丁稚や出前持ちまで覚えて唸る、というほどの人気があったそうです。

 一方、「歯を食いしばりて両眼閉じ、こらゆれますれど……」という一節は日本語的におかしいそうで、正岡容がめちゃくちゃに批判しています。

 さて、売り出したレコードは当時の浪曲ブームもあってか、羽が生えたが如くに売り出し、「楽遊の小松嵐」と称されるほどにまで、大ヒットを飛ばしました。

 当時、ラッパ吹込みという原始的な方法で、盤そのものが高級品だったにもかかわらず、何万枚も売り上げたそうで、しかも10年間、売上トップを走っていたというのですから恐ろしい大ヒット盤です。

 内山惣十郎によると、「日蓄の発展はこのレコードの売り上げのお陰」とも言っても過言ではない程だったそうです。

 この盤のお陰で、楽遊の名声はたちまちに全国区のものとなり、全国でも通用する芸人へと進化を遂げました。これは雲右衛門も奈良丸も成し遂げられなかった事象でしょう。ある意味では、元祖「録音媒体を流通させて大スターになった人」ではないのでしょうか。

 レコードは続々と発売され、彼の名を冠した速記まで売り出される始末でした。その利用料金や出演料は当然すさまじい物となり、楽遊は一躍芸能界きっての大富豪にまで上り詰めました。

 そのすごさたるや、今では嘘のような伝説ばかりです。

 自宅は豪邸。更に当時何台もなかった車を三台とも四台とも買って、毎日東京の劇場へは車で出勤。モーターボートが発売されるや、これを買って、芸者を乗せて隅田川の舟遊び。

 機械いじりが大好きで、時計や機械を買ってはこれをバラバラにしたり、いじったり。その時計や機械の購入も厭わぬという豪遊振り。

 タクシー会社を経営していた事もありましたが、運転手が立て続けに事故を起こしたことにより、廃業――という笑えぬ話も残っています。

 中年以降は喉の故障が目立ち、自身の衰えを自覚したのか、1932年、弟子の左楽遊に「三代目楽遊」を禅譲。己は「東家悟楽斎」を改名して、隠棲しました。一応、講談風の物語にも挑戦したようですが、成功はせずに結局は第一線から退くことになります。

 中年で浪曲界を退いた事もあってか、戦時中には既に「東家楽遊は没落した」というようなニュアンスで書かれるようになり――さらに、戦後の加太こうじや永六輔といった左派的な論者が、戦時中の浪曲への反発、浪曲師への態度を揶揄する形で、「東家楽遊は事故を起こして没落した」「栄枯盛衰」と記したことにより、長らく東家楽遊は引退後、悲惨な生活を送っていた――というような伝説が流れる羽目になりました。

 しかし、昭和の末に芝清之氏が東家楽遊を知る人や遺族を訪ねた結果、楽遊は没落も何もしておらず、立派に成長した息子たちに囲まれて、安楽な老後を過ごした――という事が判明しました。

 八〇年近い人生を、金にも人気にも家族に困らず、ほぼ安泰に暮らせたのは、芸人でも珍しいのではないでしょうか。

 「小松嵐」の一席は、明治大正の浪曲史のみならず、同時代の芸能史に大きな影響を与えたのは言うまでもないでしょう。もっと論じられるべき、凄まじい化け物作品だと考えております。

木村重正『ピストル強盗清水定吉』

 この人は、色々な意味で記録を残した偉大なる人です――というより、正岡容とその弟子、小沢昭一たちの存在によって、語り継がれた不思議な存在です。

 元々は千葉船橋の出身で、1899年、16歳の時に船橋へ巡業しに来た木村重勝の弟子となって、「木村重子」。可愛らしい名前ですが、その風貌はキングコングのような形で、名前とは裏腹だったわけですね。

 木村重松、重友といった優秀な兄弟弟子と競いながら、木村派の関東節を習得。

 若い頃は、重松風の、粋で鯔背な関東節で、独特の塩枯れ声を逆手にとって、哀愁を帯びた節を持っていたそうで、気の短い江戸っ子を熱狂させたそうです。

 ブサイクという欠点こそあれ、本格的な芸と哀愁を帯びた節で、たちまち人気を集め、木村派のホープとして、台頭をする間際——ふとした事故で右足を骨折し、切断という痛ましい事案に遭遇します。

 今でこそ人工関節だのなんだの言いますが、当時そんな高等技術は殆どなく、ましてや浪花節語りではそんな治療を受けられる環境も資産もなく、切断が精いっぱいだったわけですね。

 それ以来、重子は足を引きずって舞台に上がるようになります。そうした失意が、飲酒に向けられたと見えて、嘗ての哀愁も酒焼けに代わり、面影を失いつつありました。

 しかし、捨てる神あれば拾う神あり、とはうまい事を言ったもので――重子は、再起をして「重正」と改名。何を考えたのか、これまでの本格的な関東節を徹底的にぶち壊して、ユーモアと愚痴と卑俗さを混ぜた浪花節へと転向します。

 その節のいい加減さ今なお語り草で、

〽取っ手の取れた肥え柄杓、臭くて手が付けられない
〽通称全く国定忠治
〽旅の疲れであんよが痛いよ

 等と平然と節の中で放言し、その上、「ああくたびれた」などとボヤいて水を飲む――ってんですから、人を食っています。

 しかし、お客もお客で、その冗談ともマジともつかぬ芸に手を叩いて喜んでいたというのですから粋なものです。

 木村派の出だけあって、「国定忠治」「大前田英五郎」「宮本武蔵」「細川の血達磨」など、勇猛なネタを得意としましたが、異色作は、なんといっても「ピストル強盗清水定吉」の一席。

「明治物」「新作」と言えるジャンルの一つでしょう。明治時代を舞台にした作品で――実際にあった事件を面白おかしく一席に仕立てたものです。

 補足として、話の筋を書いておきます。
 主人公・清水定吉は日本で最初の「ピストル強盗」と伝えられる悪漢です。元々は按摩でしたが、ふとした事から悪事を覚え、ピストルを懐中に、覆面強盗で家々を襲い、五人も殺害。
 捜査関係者も、まさか「按摩」が殺人鬼とは考えがつかず、被害は日に日に悪化するばかりでしたが、明治19年12月3日未明、強盗を犯した清水定吉を不審に思った小川佗吉巡査によって、その正体が暴かれ、大乱闘の末に逮捕――最終的には死刑執行されるというものです。

 上のレコードの中では、全くそんな話の展開もなく、ただ木村重正の声を偲ぶだけですが(無論レコード吹込みや検閲に忖度して穏健な形になったと思われます)、実際の舞台は無茶苦茶もいい所で、好事家を驚かせ、正岡容にして「重正が、傷きし錫の徳利めく節もて絶叫する「ピストル強盗捕縄の勲」清水定吉の大悪伝は、まこと天下の至宝なりし。」と褒めちぎらせるほどの、傑作だったそうです。

 小沢昭一が『私のための芸能野史』の中に、正岡容から聞いた「ピストル強盗清水定吉」の文句を書いています。これが実にふざけていて傑作です。

〽火の車作る大工はなけれども 己が作って己が乗る
 石川県出身の小川他吉郎巡査が ピストル強盗捕縛の勲
 こりゃいつか猿之助と小太夫が 明治座で演りました
 ちょっと当時あたしのほかに誰も演り手のない浪花節だよ
 だがねえ皆さん おしまいまで聞いておくれよ
 調べましたる概略を読み奉る

 正岡容は、酒を飲むたびに涙を流しながらこれを大音声で唸るために、弟子分の小沢昭一や大西信行は閉口しっぱなしだったそうで、少し遅れて永井啓夫が弟子入りに来た際、「やっと後輩に押し付けられる」と押し付けたのですから、ひどい話です。

 もし、重正が長生きして、レコード吹込みにも積極的であったら、正岡の言うような代物が残ったのかもしれませんが、レコードと浪曲が天下を取った時には、すでに重正の身体は酒に蝕まれており、その後、間もなくして夭折してしまいました。

「名盤」とは言い切れない浪曲ですが、しかし、正岡容という浪曲の良き理解者が敬愛した代物――というだけで、立派な箔が付きます。バカバカしい、ナンセンスな代物ですが、こういったアングラな一面も浪曲人気に一躍買っていたのはいうまでもありません。

 逆に言えば、こういったアングラ味こそが浪曲の醍醐味だったのかもしれませんね。これが手軽に聞ける令和の御世には、感謝するより他はありません。

 最後に、正岡容の木村重正評をあげておきましょう。

 明治末から大正初年への浪花節の一ばん卑しいところを尽く具備してをり、その卑しさがまた最大の魅惑となつて、キラキラ燦いてゐた人であつたと云はれよう。
 とても紳士淑女の前では聴かされない浪花節で、その欠点があればこそ何よりも愛さずにはゐられない世にも不思議な浪花節であつた。
 人前には出せないけれど、愛してやらずにはゐられない落魄した親戚のおぢいさんと云ふ表現が、この重正に、適切であらう。
 

初代 京山小円『二十世紀』

 初代京山小円は、雲右衛門、奈良丸に次ぐ巨匠で、同門の京山若丸と共に「京山」を関西随一の屋号に仕立て上げた功労者です。

 新作読みの京山若丸に対し、小円は古典一辺倒。理知的で繊細な若丸、義太夫仕込みの太い声と肚で聞かせる小円——とどこまでも一対の関係でした。

「武士道鼓吹」を掲げた雲右衛門に倣って、「人道鼓吹」なる理念で浪花節を開拓。雲右衛門とはまた違った読み口や解釈で人気を得ました。

 また、義太夫出身の経歴を生かして、声を自由自在に操る「三段返し」なる技法を編み出し、一門に伝えました。

「三段返し」をうまく説明するのは難しいのですが、この技法を駆使しまくった結果、一節で3分以上持たせるという驚異的な肺活量と声を維持できたそうです(レコード吹込みをした際、片面を出だしの一節で埋めてしまい、NGになった伝説もあります)。

 当然、義太夫も上手く「余芸」としながらも、ラジオ放送で「沼津の段」を演じたり、一節をレコード吹込みしたり――と、下手な太夫よりも余程うまい声と味を持っていたそうです。今聞いてみても、なるほどうまいと感じさせます。

 ただ、この人が遂に雲右衛門を越えられなかったのは、得意とした演題が、雲右衛門、奈良丸とほぼ同じだったから。後進は先駆者を越えられない悲しみがここにあります。

 後輩の梅中軒鶯童も「芸は立派」としながらも「しかし、雲調のネタが多く損をした」というようなことを『浪曲旅芸人』の中で記しています。なるほど、名批評といった所。

 しかし、関西節をポピュラーにした功績と牙城は決して崩れないでしょう。

 さて、京山小円のレコードですが、雲右衛門よりも長生きして、レコードの浪曲ブーム(?)に間に合った事や、奈良丸同様にその人気を煽られる形で、多くのレコードを残しました。

 「人道鼓吹」と謳っただけに、その演題の多くが「忠臣蔵」「楠木正成」といった忠君物や「曾我兄弟」「五郎正宗」といった孝子物、或いは「佐倉義民伝」「石童丸」「中将姫」といった古典――演題は堅いと言えましょう。

 義太夫が好きな人なら面白く聞けるかしれませんが、如何せん堅い印象しかないので、雲右衛門同様に「難解」なイメージがつきまとうかもしれません(なおさら、雲右衛門のような狂気がなく、清廉としているせいもあってか)。

 その中で、京山小円一世一代の洒落というべき、珍品が存在します。

「二十世紀」なる、当時の風俗を面白おかしく読み上げた一篇です。当時の風俗事情や京山小円という大立者が、こんなものを読んだという「史料価値」を含めて、ピックアップしました。

 今聞くと、ノイズまみれで何ともアナクロニズムな感じがしますが、当時の事情を慮れば、相当なハイカラというものでしょう。

 この演題は、以下のURLの「2枚目B面」で聞く事が出来ます。それより前のリストは、奈良丸の「天野屋利兵衛」なので気を付けてください。

 ノイズが多く、また独特の節まわしゆえに何言っているかちんぷんかんぷん――という人の為に「歌詞」を用意しました。内山惣十郎の名著『浪曲師の生活』の中に書いてあったものです。

〽進み行く 世にも時にも遅れじと 開けて匂う花競べ  
 自由自在に君ヶ代を 一寸行くにも自動車や電車自転車 
 汽車汽船姿見えねど心をば 述ぶる無線電信機に 居ながら語る電話機 
 今朝見し人も夕には百里隔てし旅の空 今日ロンドンの花を見て 
 明日はシカゴや巴里の月セントピータースブルグの月に遊びし友も呼ぶ 
 支那の北京の宿も夢 世界一週空中旅行 夢想兵衛や孫悟空 
 昔咄を今ここで 実地を見せる世の中に 学術技芸に備わりし 
 四辺(よも)の諸君に我輩(やつがれ)が 
 無学無才の片語(かたこと)も 人道鼓吹を目的に 語る吾人の蓄音機

 こう書いてみると、なんだかトニー谷やルー大柴のイカサマ外国語のような感じがしますが、当時はこれだけでも新しく感じたのでしょう。

 内山惣十郎に言わせると「奈良丸は写声機といったが、小円は蓄音機と言っているあたり、多少進歩的なのかもしれない」。こうした言葉の変遷も、また一つの資料になり得るのではないでしょうか。

 たった3人だけなのに、もう6000字を超えてしまったので、一旦ここで切り上げます。次回はまた別の人と音源を取り上げましょう。

 〽ちょうど時間となりました~~~


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