彼について

 数年前に死んでしまった友人の婚約者は、今どうしているだろう。

 ラインで、どうしてる?と一言だけ打って、送ってしまいたくなる。でも、そんなことをすべきではないからやめる。

 彼のことが気になるのはなぜなのか。私は別に彼と彼女の思い出話をしたいわけじゃない。気になるのは、彼が多分まだ大丈夫ではない気がするからだ。

 友人は一つ年下で、その婚約者は友人と同い年だった。つまり二人とも一つ年下。

 彼とは三回会った。

 一回目は、友人が癌になってから、治療が一旦明けた彼女が地元から遊びに来たとき。もう1人、彼女と私の共通の友人を交えた四人で、野毛の居酒屋で飲んだ。
 ふにゃりとしているというのが、第一印象だった。柔和とかではなくて、なんだか芯とか熱い志とかそういうのはあまり無さそうに見えた。彼女はなかなか芯のある人だったから、物足りなくないのかなと思った。あとは、無機質さを感じた。なんというか現代の都会で育った感じがした。何を考えているんだか分からないような。
 その日は男1人で、決まり悪そうでちょっとかわいそうだった。でも、目の前で友人と並んでいると照れつつ嬉しそうで、ちょっと茶化すと返しも意外と面白くて、そしてやっぱり彼女のことが好きなのが分かった。なんだか、がんばれと思った。

 二回目は、友人が死ぬ直前に最後に会いに行ったとき、病院で会った。
 鈍い私は、もう治療法もないって言われちゃったと彼女が言っていたにも関わらず、その日が最後になってしまう可能性を、病室の扉を開けて彼女の姿を見るまでちゃんと理解していなかった。
 勝手にショックを受けた私は話すべき事が何かも分からず、普段と同じような、どうでもいい話をしてしまった。頭のどこかで、この日が彼女と過ごせる最後の時間かもしれない、何か、何かを話さないとと思っているのに、だめだった。
 でも別れ際、痩せこけて黄色くなってフラフラの友人が、ハグしてもいいですか?と聞いてきた。そんなの初めてだった。そして、それは全力の長い、長い、ハグだった。午後の病室の静寂の中で、友人の体温と、私の背中にだんだんと込められていく、彼女の腕の力強さを認識したとき、もうすぐこの存在が無くなってしまうことを、私は唐突に理解した。それと同時に、私は彼女のことが大好きだということがいきなり胸に迫ってきた。それでもう私はハグができなくなって、涙が止まらなくなった。「最後に泣かせてしまってごめんなさい」と彼女は言った。そして彼女は病室の出口まで、フラフラになりながら来てくれた。絶対に永久の別れなんかをしたくなくて、無理矢理にまたねと言った私に、秋の夕陽に照らされながら、涙を流してるのに信じられないくらいの清々しい笑顔で、また!と言ってくれた。
 廊下には彼がいた。下まで送ってくれるとのことだった。その時、彼女に何かあったら連絡してと、ラインを交換した。

 三回目は、彼女のお葬式。冬になったばかり、彼女の地元は寒かった。式場で会って、大丈夫かと聞いたら大丈夫じゃないと言っていた。彼は婚約者で籍は入れてなかったけど、喪主だった。彼は弔辞を頑張って読んだ。彼女は優しくて負けず嫌いな人で、一緒にいることでどんなに楽しかったかを語った。苦しそうだった。もう心はフラフラなのが分かった。なんとか立っているという感じだった。まだ20代半ばで、元々、こんな展開はない人生だったはずだ。私は涙と鼻水でぐしょぐしょになったティッシュを沢山膝に抱えて、彼女に思いを馳せながらただ聞くしかなかった。
 葬儀後の精進落とし、彼女の親戚と、私たち友人の少人数の会食で、彼はお酒を注ぎにきた。来年の春に転職予定で、今いる会社はもうすぐ退社する、だからあと数ヶ月間は何もないと言っていた。転職は希望の業界に行くためというのもあったが、何よりもっと彼女の側にいようとしたためだというのは彼女自身から聞いていた。
 でももう、何もすることが無くなって、一緒にいたい人もいなくなってしまって、いきなり何もない数ヶ月はきついだろうと思った。海外とかに行ってみたら?なんてどうしようもないことを言ってしまった。なんの助けにもならない、くだらないひどい発言だった。でも彼の気を紛らわす方法をその時他に考えつかなかった。彼はうーん…と言って、やっぱり海外になんて行かなそうだった。
 自殺とかしないといいなと思った。彼が新しい道を歩めるまでにはかなり時間がかかるはずだった。気がかりだった。去った友人のために何か出来ることとして、彼のケアもあったかもしれない。でも私には無理だ。中途半端なことしかできないし、直接彼女の闘病に関わっていなかった私自身も、彼女の死で、しばらく精神的に過敏に、弱くなるのが分かっていた。だから、ありきたりな挨拶をして、別れた。

 それから数年経った。毎日、頭なのか心なのか分からない自分の中に、友人が浮かぶ。その頻度と悲しみの刺激は小さくなってきているが、思い出さない日はない。
 そしてたまに、ラインのホーム画面の友だち欄で彼を探し、アイコンも、その背景の写真も何も変わっていないのを知る。それらの写真は、彼女と行った海外旅行の時のものだと知っている。

 生きていれば、その人がいない状態に、嫌でもだんだん慣れていく。でもすごく時間がかかるのだ。数年で、彼は立ち直りなんかしていない。

 それでも、こうやって彼のことをふと思いだした今日も、私は何もしない。

 いつか、久しぶり、今どうしてる?と、送信ボタンを押すのだろうか。

 大丈夫じゃなかった彼は今、何をしてるんだろう。

 とりあえず今日は生きましたか。
 やっぱり彼女のことを思い出しましたか。
 今、どうしてますか。